2009年5月7日木曜日

無敵の読者・未体験ゾーンへ突入

出典:長沼伸一郎著 現代経済学の直観的方法

        --「知的レベルの高い非経済人」のための現代経済解剖--


      序

 どうしたものか、理系のセンスをもった人の中にはほとんどアレルギーに近いというほどに経済学が嫌いという人が実に多い。難しくて理解できない、というのではない。とにかく「嫌い」だというのである。
 また理系に限らず一般の読書人の中にも、歴史や国際政治などに関してはかなりの読書量を誇っているのに、なぜか経済に関しては見るのもうんざりで、結果的に頭の中でそこだけが暗黒のゾーンとして残ってしまっているという人が意外に少なくないように思われるのである。
 もっとも実を言えば、それらの人々はなぜそうなってしまうのかの理由を知っている(というより以下の話は、何を隠そう私自身が以前そうだったのだから、まず間違いない)。そうした人々にとっては読書や学問とは要するに遠い世界へ遊ぶことであり、何億光年も彼方の宇宙や何千年も昔の古代帝国へ思いを馳せ、そこに近づくための手段として読書という行為があるのである。
 ところがそうやって遠い世界のロマンに浸っている人々の前に経済の本を置いたらどうなるか。これはもう興醒めもはなはだしいであろう。たった今まで天の神秘の鍵を開くつもりで本を開いていたというのに、たかが今日明日の金勘定の話が学問だって?
 そこまでぼろくそに言っては経済学に対してあんまりというものだが、とにかくそういう思いがあるものだから、ほんのちょっとした理解の困難に遭遇してもそれを乗り越えようという気力が生まれない。そしてその程度の障害でつまづいたことを「難しい」と認めるというのも少々しゃくなので、自分はこれが「嫌い」なのだと言い聞かせ、それを続けるうちにしまいに頭の中で一種の匂いまで帯びるに至り、それが条件反射と化してしまうという寸法である。

 ところがこうした高踏的な世界に遊ぶ人々は、どうやらそのプライドがたたったとみえて、最近あまり神様の覚えがめでたくないらしい。実際一昔前なら哲学的で深遠な本を小脇に抱えていれば文明社会について熱く語ることができたのだが、最近では文明や国際政治の問題のかなりの部分が経済の問題に化けてしまい、それ抜きでは何も論じられなくなってきている。
 またそれとは無縁な問題を論じているつもりでも、ちょっと階段を上って話が大きくなると、すぐに頭が経済の天井にぶつかってしまうという現象があちこちで見られている。実際環境問題などに取り組む研究者などはさしずめそれに悩まされている代表で、ちょっと話を進めるとすぐに問題が背後の経済構造にどうしようもなく支配されているという現実に遭遇し、思考がそこでストップしてしまうのである。
 またあるいはより一般に、現在技術系の職場や学科にいる人の中にも、最近(自身のサバイバルのためにも)経済について理解する必要性が日に日に高まっていることを感じている人は多いものと思われる。
 しかしたとえそれを学ぶことが必要だということになっても、よほどせっぱつまった状況でもない限り、まずは途中で投げ出して終わることになる。大体こうした人々はその際に、これ一冊読めばとにかく経済なるものに関して大まかな粗筋だけはわかる手頃な本というものを探し回るのだが、ところが一見それが容易にありそうでいてなかなかぴったりしたものが見つからない。
 本来この種の人々は、自分の好みのジャンルのものならば相当高度なものでも結構読みこなす高い教養をもっており、そんな贅沢な要求ではないはずなのだが、経済の入門書のコーナーを覗くと「株で儲ける法」だの「為替取引入門」だの、およそ要求とはかけ離れた本ばかりが並んでおり、何かとんでもない場所へ迷い込んだような気がして、思わず早足でそそくさと立ち去ってしまうのである。
 やむを得ず、正面から行くしかないということで本格的な教科書に取り組むことにして読み始めると、今度は金利がどうのこうのという話がいきなり始まってしまい、途端に呼吸困難を覚え始める。それでもなおがんばろうという場合、まず一旦深呼吸をしてから息を止め、遮二無二水底へもぐっていこうと必死で水をかきわけていくが、すぐ息が続かなくなって水面に飛び出してしまう。そしてそんなことを続けているうち、だんだん自分の姿が何やら潜ってアワビでも採ってくる海女さんか何かのように見えてきて、情けなくなってくるのである。
 そんなこんなで結局2~3ページで本を投げ出してしまうというわけだが、こういう傾向はなまじ教養が高かったり理系のセンスが鋭敏だったりするほどしばしば強く現われがちである。しかしそうだとすれば事は重大で、下手をすればこうした層全体がまとめて巨大な落ちこぼれ集団になりかねない。どうにかならないものであろうか。

 こうしてみると、その種の読者が必要とする本はどうも単に「わかりやすい」というだけでは駄目らしい。むしろ真の問題は、活字の向こうに垣間見える著者の姿が、どうも自分とは異質な空気を呼吸する異質な人種のように感じられた場合、それだけでうまく内容を吸収できなくなるという点にあるように思えてならないのである。
 もしそうだとすれば、著者が経済の世界を長いこと生きてきた筋金入りの経済人ならそういう読者のためのベストな本を提供できると思うのが、そもそも間違いの元である。大体この段階では、読者はあまり精密な情報を提供されても猫に小判で、頭の右から左へ抜けてしまうし、どうせ初歩的な情報による大まかなイメージ以外は役に立たない。
 こういう場合、著者に必要な知識のレベル自体はせいぜい読者の数歩先を歩んでいる程度で十分であるし、むしろそれを読者と同じ空気に変換する特殊なテクニックの方こそが鍵だとなると、むしろ経済のアウトサイダーとして読者側に近い空気を吸って育ってきた人間の方が、あるいは書き手として適しているかもしれない。
 いずれにせよ、世の中には「知的レベルの高い非経済人」という層が厳然として存在し、そのための本なり何なりが必要であることだけは確かのようである。
 本書はまさしくそういう層のために書かれた極めて特殊な本であり、昨日まで経済新聞の中身がほとんどわからなかった読書人や理系人間(場合によってはどういうわけか経済学部の学生なども)が、数日間でとにかく明確なイメージを頭の中に作り上げられるようにすることで、その層の一挙救済を狙ったものである。

 そしてそういうマジックを行うために、本書では独特のアプローチをとっている。まず、本書は全体が解剖編、理論編、実戦編の三部に分かれて、三方向から経済というものに迫っているが、その際に文明への「金融」の登場というものを、世界史への「鉄道」の登場のアナロジーとして捉え、一貫してそのイメージで記述を行なうことで、うっとおしい経済用語の使用を極力避けたことが大きな特色である。
 そして各部についてもそれぞれ説明しておくと、まず第1部「解剖編」では、資本主義は一体どこがまずくて止まれない体になったのかという疑問を中心に据えて、そもそも資本主義の基本的な仕掛けがどうなっていてその中枢部に何があるのかという問題に最短のルートで直接切り込んでいく。
  <中略>
本書には別に高度な情報が盛り込まれているわけでも何でもないが、ただ一般に言えることとして、およそ参考書や解説書の世界では、時間の経過とともに一種の奇妙な「ドーナツ現象」が生じることがある。つまり解説書が競って最新情報を盛り込もうとして外へ外へ守備範囲を拡張していくうち、一番中心にある一番肝心なことが、だんだん自明のことと見做されて記述が減っていきがちになるのである。そして読者が代替わりする頃に、まさにそういう新参の読者が一番知りたいと思う領域だけが、しばしばドーナツ状にぽっかりと穴が空いてしまうことがあり、本書が集中的に狙ったのはまさにこのドーナツの中央部分なのである。

なお本書は、当初われわれの間で一種の内輪のテキストとして使用されていたものが原形となっており(そのあたりの経緯については後記で述べたい)、そのため本書は理系(主として物理系)や環境問題研究者など、およそ筋金入りの経済アレルギーの人間を相手にさんざん格闘して、有効性をテストしてきたという、いささか珍しい「経歴」をもっている。
 そしてその使用実績から言うと、第一部「解剖編」の僅か数十ページを読むだけでも、「わかった気分になれる」という点で劇的な効果があるとのことで、結局のところ本書の価値も最初のその数十ページに集約されるのかもしれない。
 ともあれこれで「知的レベルの高い非経済人」の頭の中に腫瘍のようにとりついた経済問題への苦手意識がきれいに除去されるとすれば、本書の目的はとりあえず達せられたことになろう。



私は、溺れかけた素潜りの海女さんの1人になっている。
しかし、
長沼先生のマジックを体験すればどうにかなる!?
さぁ、ここから始まりだ

自分の頭で考える。劇的・その気の経済学
答えが無いのはごく自然。野生の感覚磨きましょ


つづく

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