2009年6月9日火曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第二章-1

【人生の風雪・急坂険路を突き進む力】編述者■渡部昇一
 人間の行動行為は数限りなくある。そしてそれぞれの価値はピンからキリまであるが、《努力》という行為は高貴な位置にある。
 近ごろ奮闘という言葉がよくつかわれているるようだが、これは《努力》とやや似た意味をあらわしている。しかし厳密に使い分ければ、《奮闘》というのは仮想の敵がある場合に当てはまる言葉で、これに対して《努力》は敵の有無にかかわらず、自己の最良最善を尽くして、あることに勉励することである。
 努力は、奮闘という言葉が持つ感情・意義よりもさらに高大・中正・明白で、人間の真面目の意義を発揮している。
 元来、世界の文明のすべては、この努力の二字に根ざしており、そこから芽を出し、枝をつけ、葉を生じ、花を開かせてきたといわねばならない。
 努力と向かい合わせている行為に《好事》というのがある。つまり「好んで為す」ということである。
 努力が、いやなことでも忍んで、苦しい思いにも耐え、苦労して事に当たるということを意味しているのに対して、好事・嗜好というのは、苦しいことも忘れ、いやだという感情もまったくないなく、つまり意志と感情とが平行線的・同一線的にはたらいている場合をいうのである。
 努力というのは、意志と感情とが相反している場合でも、意志の火を燃え立たせて感情の水に負けないようにし、そうして熱して熱してやまないことをいうのである。
 ある人があることに従事して、われ知らず無我夢中で自分の全力をそこに投入している場合、それは努力というというより「好んで為す」といったほうが適切である
 世界の文明が《努力》から生まれてきたのか、あるいは「好んで為す」ところから生まれてきたのかといえば、人々の観察・解釈・評価の仕方にとって違うが、どちらにも取れる場合が多い。
 しかし厳正に見れば、好んで為した場合においても、努力がともなわなければ多くの場合、挫折・中断しているし、そうならなくても大きな成果を期待することはできない。
 好んで為すといっても、そのあいだに状況の悪化や不運が生じるのは人生にはつきものである。その悪条件の中で自己の感情に打ち克ち、目的から目をそらさず突き進むのが、すなわち努力というものだ。コロンブスの新大陸発見などは、まさにこの好例ではなかろうか。
 《有福》の人が趣味の園芸を楽しむ場合でも、苦痛をともなうことがしばしばある。極寒猛暑の日の作業もあろうし、害虫の駆除や面倒な施肥、緻密な観察や繁雑で不規則な時間の作業など、途中で投げ出せないことが想像以上に多いのだ。
 「好んで為す」といっても、そのあいだに好まざる事態が生ずるのは人生にありがちな事実である。その好まざる場合が生じたときに、自分の感情に打ち克ってその目的の遂行をするのが、すなわち《努力》なのである。
 旅が好きで出かけても、実際の旅には風雪の悩みもあり急坂険路もある。いかに金持ちであっても地位が高くても、天の時、地の状況によって旅は相当苦しいものとなる場合が多いのだ。好きだとはいえ、旅でさえさまざまな努力が強いられるものだ。
 たとえそのことが好きであっても、またそれを成し遂げる能力があっても、最初から最後までいい気分で進行することは実際の人生ではまずあり得ない。さまざまな障害が待ち受けているのがふつうである。それを乗り越え突破して進むには、その人の《努力》を待つしかない。
 周公や孔子のような聖人、アレキサンドロス大王やナポレオンのような英雄、ニュートンやコペルニクスのような大学者であろうとも、いずれもたゆまぬ努力によって大成していることを忘れてはいけない。ましてや才乏しく貧しいものにとっては、努力だけが唯一の味方だと断言してよい。才覚も金もない者が旅行するとすれば、馬にも車にも乗れないのだから、努力という二本の脚を使って自力で歩き通すしかないのと同じことである。

 ややもすると、優れた人物は努力することなく偉業を成し遂げたと思われがちだが、それは結果だけ見た皮相の観察であって、苦労したプロセスを見落としている。そういう人物こそ常人と比べものにならない厳しい試練を経てきているのだ。
 千里の駿馬は駄馬よりはるか遠くまで走り、大才有徳の士は常人よりはるか広い人世の旅をしているから、遭遇した不快・不安・障害も多かったはずだ。それを克服して栄光をつかんだ彼らの想像を超える努力を覚えておこう。
 東洋流の伝記などを読むと、生まれながら知勇のそなわった天才・英雄がいて、何の苦労努力もせずに栄光を勝ち得ているように書いてあるが、それは事実ではない。隠された努力を見落としているだけだ。
 一歩ゆずって努力することなく大業をなした人がいるとしよう。その英知・才能はどこからきたものであろうか。それはその人の系統上の前代の人々の《努力の堆積》が、その人の血液の中に注がれて、その人が英才たることを得たのである。
 天才という言葉は、ややもすると、本人が努力することなく得た知識・才能を指すように誤解されているが、それは違う。いわゆる天才なる者は、その系統上における《努力の堆積》が子孫に引き継がれて、開花結実したものと見るのが正しい。
 園芸植物でもそうだ。マニアたちが目の色を変える珍しい花でも、それが突然出現したのではない。時間と手間をかけて交配を繰り返し、その系統の中に優れた因子の堆積がなされたのである。草木にしてこうなのだから、人間の稀有なる尊いものが忽然として生れ出るはずはない。《努力の堆積》は一朝一夕にできるものではないのである。
 目がみえない人の指先の感覚は、紙幣の真贋を見抜くほど鋭敏である。この感知力は偶然に得たものではない。目が不自由であるという欠陥を補おうとする努力の結果として、指頭の神経細胞の配列が緻密になったのである。《機能》がよくなったというだけではなく、解剖学的な《器質》そのものに変化が生じて優れた働きをするようになったのだ。これはすなわち努力の絶えざる蓄積が、やがて物質上にも変化をもたらしたということだ。言いかえれば努力が《器質の変化》を生んだ例として考えてもよいのではないか。
 生まれつい優れた人物というのは、偶然に発した天賦の持ち主というより、優れた《器質》の遺伝、つまり《不断の努力の堆積》の相続者、もしくは表現者といったほうがわかりやすいかもしれない。
 未開の国の人は数学ができない。これは当然のことで、こういう国の人々には代々の数学についての《努力の堆積》がまるでないからだ。われわれだって同じこと、代々の努力を基本としていない者が、ある日突然高等数学を理解できるようになるわけがない。
 われわれは、ややもすると努力しないで事を成し遂げたいと考えがちだが、こういう考え方はきっぱりと捨てよう。努力よりほかにわれわれの未来をよくするものはなく、また努力よりほかにわれわれの過去を美しくするものはないのである。
 努力は、すなわち《生活の充実》である。努力は、すなわち各人の《自己の発展》である。そして努力は、すなわち《生の意義》そのものなのである。

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