2009年6月6日土曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第一章-5

【自分の人生に「福」を積み立てる三つの秘策《植福》】編述者■渡部昇一 
 人間は《有福》を羨むが、もっと羨んでよいものがあることを知らない。
《借福》すべきことを知っていても、さらに大きなすべきことを知らないのである。そして《分福》を学ぶことを知っていても、もっと大きな学ぶべきことを知らない。
 福をもつということは、けっして悪いことではない。しかし福をもつということは、放たれた矢が天に向かって飛んでいる状態のようなものであって、やがて力が尽きればて落ちてくるしかない。これと同様に、福をもつ力が尽きると福を失ってしまう。
 《借福》も火鉢の中の炭火をむき出しにせず長持ちさせるようなものだが、新しい炭を補給してやらなければ火勢は大きくならない。《分福》はよく熟した果物を他人と一緒に賞味するのと同じだが、食べ終われば空しい。
 人が喜び、自分も喜ぶことができれば、そのときにおいて加減乗除が成立して、人が喜んでくれた分が自分ひとりだけで喜んだことよりマシだというにとどまる。有福・借福・分福、いずれもよいことであるにちがいないのだが、それらよりさらに卓越して優れているのが《植福》である。
 では《植福》とは何か。それは自分の力・情・智をもって人の世に幸福をもたらす物質・清趣・知識を提供することである。
 《植福》という一つの行為は、二重の意味を持ち二重の結果を生む。つまり自己の福を植えることと同時に、社会の福をも植えることにもなり、その結果、自己の福を収穫するとともに社会の福をも収穫できるのである。
 ここに大きなリンゴの木が一本ある。そのリンゴは毎年花が咲き実を結ぶ。その実はおいしく持ち主は幸福である。これがすなわち《有福》。この実をむやみに多産させないように、木を大切に管理し長持ちさせるのが、すなわち《借福》。こうして育った立派なリンゴを独り占めしないで他人にも分け与えるのが、すなわち《分福》である。
 有福ということは善でも悪でもなく、そのどちらとも決めつけられないが、借福と分福はどちらも喜ばしいことなのである。

 では具体的に《植福》ということを、リンゴの木を例にとって説明しよう。
 種子を播いて成木にする、苗木を育てて成木にする、接ぎ木をして成木にする、この三つのやり方はプロセスが違っていても、すべて《植福》である。害虫を取り除き薬や栄養を与えて復活蘇生させることもまた《植福》である。
 天地の生命力の作用を手伝って、人畜の福利増進に役立つことをするのが、すなわち《植福》の基本的な姿なのである。
 たかだか一株のリンゴの木といってはいけない。その一株の木から数十個、数百個の実がなり、その一個から数十株、数百株のリンゴの木が生い茂り、天の光と地の水が数え切れない甘美な果実をもたらしてくれるのである。スタートは些細なことであっても、幸福利益の源泉となることをするのが《植福》であり、この植福の精神・作業こそが世界を進歩発展させて豊かにしてくれるのである。
 もし《植福》の精神・作業がなかったとしたら、人類がいかに勇猛であっても今なおライオンや熊と対峙して暮らしているかもしれない。また、いかに知恵があっても今なお猿やヒヒと棲み分けていたかもしれない。あるいは、社会組織の性質をもっていたとしても蟻や蜂と同じような生活を続けていたかもしれない。
 幸いにして、人類は数千年前の祖先から《植福》の精神に富み、《植福》の作業に努めてきたおかげで、時代を追うごとに幸福が増進した。そして堆積された知識・経験によって他の動物と隔絶した複雑巧妙な社会組織を築き上げることができたのである。
 農業こそまさに《植福》の精神・作業を具現化したものではないか。もちろん農業ばかりではない。工業でも商業でも、自己の幸福や他人の福利をもたらすものならば、これに従事する人たちはみな福を植える人たちなのである。

 福をもちたいと願う人は多いが、実際に福をもつ人は少ない。福を得ても福を惜しむことを知る人は少ない。福を惜しむことを知っても福を分けることを知る人は少ない。福を分けることを知っていても福を植えることを知っている人はさらに少ないのである。
 米を得たいと思えば稲を植えるしかない。ブドウが欲しければブドウの木を植えるしかない。これと同じ道理で、福を得るためには福を植えるしかないのである。ところが実際には、福を植えることを回りくどいと考え、遠回りであると考える人が多いのは残念でならない。
 植えられた福は、時々刻々成長して、休みなく伸びていくのだ。天運星移とともに進み、いつとはなく増大し、いつとはなく優れた結果を積み上げているのである。
 杉や松の大木は天を摩すが、その趣旨は二本の指先でつまめるぐらいの微小なものだ。植えられた微小な福は見上げるほど巨大に育つのである。
 渇いた人に一杯の水を与えるぐらいのことは、どんな微力の人にだってできる。飢えた人に一椀の飯を振る舞うぐらいのことは、どんな貧乏人だってできる。それを、こんなちっぽけな行為に何の価値があろうかといって実行しない人がいる。これは明らかに考え違いで、一粒の種子が巨木に育つことが理解できれば些細なことが必ずしも些細なことで終わらないことが理解できるはずである。
 自分が福を得ようと思って植えた結果が、他人に福を与えることがよくある。これは善美を尽くしたこととはいえないが、植えないことに比べたら百倍も立派なことである。
 こういう行為は《植福》においては末梢のことであっても、けっして小さなことではない。渇いた人に、飢えた人に心から同情して行動を起こすことが、すなわち人間と野獣との分かれ目である。こういった人類の心が積もり積もって今日のような社会が成り立った。人間と野獣という大きな隔たりも、最初の微細ではあるが重要な心のはたらきから始まっているのである。

 今われわれは、古代に比べ原人に比べてはるかに大きな幸福を得ている。これはすべて祖先の《植福》の賜物である。祖先のおかげをこうむっているわれわれは、同じように《植福》して子孫に残してやらなければならない。文明というものは、すべて先人が福を植えてくれた結果である。そして災禍はすべて先人が福を破壊した結果である。
 真の徳と知恵の蓄積こそ幸福の源泉であり、これがすなわち《植福》そのものである。これは木を植えて子孫に福を贈ることなどと比べものにならないぐらい大きな作業である。《植福》こそ人間の最重要課題といえよう。
 《有福》は祖先のおかげであって評価すべきところはない。
 《借福》の工夫のある人は少し尊敬してもよい。
 《分福》の心のある人はさらに尊敬してよろしい。
 《植福》できる人こそ最も敬愛しなければならない。
 《有福》の人は、あるいは福を失うこともあろう。《借福》の人は福を保持できるかもしれない。《分福》の人はさらに福を招くことができるであろう。
 そして----《植福》の人こそ福を創造することができるのである。

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