2009年6月5日金曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第一章-4

【自分の人生に「福」を積み立てる三つの秘策《分福》】編述者■渡部昇一
 《借福》は自己一身にかかわることで、いささか消極的な趣があるが、《分福》は他人の身上にもかかわることだから、おのずから積極的な感がある。
 では《分福》とはどういうことか。ひと口にいえば、自分の得た福を他人に分け与えることである。たとえていうと、自分が大きな西瓜を手に入れたとき、全部食べ尽くさず、何分の一か残すことが《借福》で、《分福》というのは他人にも分け与えて、一緒にその味を楽しむことである。
 このように借福と分福とは互いに表裏をなしており、借福は自らの幸福を抑制し分福は幸福を他人に分け与えるものである。
 借福が自己の幸福を十分に使い尽くさず、その一部分を予測できない冥々茫々たる未来、あるいは運命にゆだねてあずけておくことに対して、分福のほうは自分の幸福を自分で十分に使って楽しむことなく、その一部をただちに他人に分け与えるものである。だから両方とも自分の幸福を自分が十分に使って楽しめないから、さしあたりの不利益を被っていることは同じだ。そして借福も分福も、そうやって間接的に福運を招き寄せていることも同じである。
 世の中には、大きな福分を持っていながら吝嗇の性癖のため《分福》の行為をせず、憂いは他人に分けても、うまい汁は独り占めしたいという人もいる。「雪隠で饅頭を食う」ような卑劣な行為をしながら、これが頭の良い人間のやり方だと思っている人も少なくない。
 現在だけを考えるならば福を独占した方が自分で享受できる福の量はたしかに多い。しかし、その心根はまことに狭小でけちくさくて情けない。「福らしくもなく福を享ける」というもの寂しい情意ではないか。
 ここにひと瓶の銘酒がある。自分一人で飲めば酔えるが、他人と一緒に飲めばどちらも酔いに達しない。自分一人で飲み尽して他人に分けないのは福を独占することだ。自分の酒量を超える酒を飲み尽すのは福を惜しまぬ行為である。
 他人といっしょに飲めば酔うどころか酒の香りを楽しむ程度の量でも、みんなと一緒に飲もうというのが福を分かつという行為なのである。
 人間と他の動物と異なるところはなにか。おのれを抑えて人に譲り、情をコントロールして義に近づき、「己に克って礼に復る」という心をもっていることではないか。物が足りなくても心が足り、欲が満たなくても情が満ちることで十分だ。
 福を分かつことができないのは、飢えた犬と同じように欲望に目がくらんだ下等な人間なのである。「人間も動物の一種である」ことを証明しているといえばいえるが、それではあまりに情けないではないか。
 一瓶の酒、一切れの肉を分け合うことなど些細なことである。このわずかな酒や肉でも分けてもらった人は非常に甘美な感情を呼び起こされるもので、この感情の衝動された結果はけっして些細なものではなく、きわめて大きな影響をもたらす。
 昔の名将を見れば、福を部下に分け与えるために臨機の知恵を絞っているが、愚将は常に《分福》の工夫に欠けた行動をとっていることがよく分かる。
 ある名将は、部下が多くて酒が少なかったので、その酒を川に投じてみなでそれを汲んで飲んだという。この水を飲んでも酔うはずもないが、その名将の口では言い表せない恩愛に部下は酔いしれたのである。このように部下を愛する名将に対しては、部下たるもの献身を誓わぬはずがなかろう。人の上に立つ者は必ず《分福》の工夫を徹底しなければならない。

 福を分け与えるという心は春風である。ほんとうに福を分けようという心を抱けば、その分ける福の量がどんなに少なくても、それをもらった人は非常な好感情をもつものだ。春風は人の心を和らげ、ものを育む力をもっている。《分福》の工夫に欠ける人はしだいに寂寞䔥散の光景が出てくるのに反し、《分福》の人の周囲には和気がみなぎり祥光がたなびくような風になって、人の心もそこに向かうのである。
 人の上に立つ者は、絶対に福を分け与える心と工夫がなければならない。
 人の下にいる者は、必ず福を惜しむ工夫がなければならない。
 《借福》の工夫と《分福》の工夫を兼ねそなえた真の福人は少ない。実際の世間を眺めてみると、《借福》の人は《分福》に欠け、《分福》のひとは《借福》に欠ける傾向がある。
 人の下にいて、これから立身しようという人が福を惜しまないと、福が積もり重なるところがなく、その人は長く無福の境界にとどまる。福を分けない人は、自分の一本の手足だけで福をつかむ小さな境界にとどまり、他人の手足から福が運ばれてこない。
 他人に福を分け与えれば、他人も自分に福を与えたいと思ってくれるし、たとえ与えることができなくても、ひそかに福の来訪を祈ってくれるものである。
 ここに会社の経営者がいたとしよう。この経営者は、利益が上がると必ず社員たちに分配した。こういうやり方をすれば、社員たちは経営者の利益はすなわち自分たちの利益であるという意識をもち、いっそう仕事に励むから経営者ともども大きな利益を得ることができる。
 反対に、経営者が大きな利益を上げても、社員たちには約束の報酬しか支払わないとしよう。社員たちは約束だから文句もいわないが、経営者の利益内容には関心も抱かず、頑張って会社を儲けさせようという気持ちはさらさらない。
 《分福》の心に欠けていると、自分一人の手足の力だけによる小さな福はつかめるが、他人の助けを借りた大きな福はあまり期待できないのである。
 自分ひとりだけの手足でつかむ福は知れたものである。しかし、ほんとにちっぽけなものであっても、それが集まってたくさんの人の手足で運ばれてくる福は大きい。力は大勢の人の力を併せるより大なるものはなく、智は人の智を使うより大なる智はないではないか。たくさんの人の力と知恵が集まれば、もたらされる福は莫大で、大事・大業・大功・大利が成し遂げられるのである。
 発展途上の段階の人であっても《借福》の工夫さえあれば、しだいに福を積むことができるが、頭角を現して人の上に立つ段階ともなれば、《借福》の工夫だけではだめである。それに加えて《分福》の工夫がなければ大を成すことはできない。
 
 人の世は時計の振子と同じで、右へ動かした分だけ左に動き、そして左に動いた分だけまた右へ戻る。「天道は復すことを好む」というが、まさにそのとおり。自分から福を分け与えれば、人もまた自分に福を返してくれるものである。
 徳川家康は《借福》の工夫では秀吉に勝っていたが、《分福》の工夫では遠く及ばなかった。秀吉は功を収めることが早く、家康が功を収めることが遅かったのはいろいろ理由があるが、その一つは秀吉に《分福》の工夫があったことによる。
 秀吉は功績ある臣下にじつに気持ちよく大禄を与えた人である。この点、秀吉は歴史上に例を見ない。加藤清正・福島正則・前田利家・蒲生氏郷をはじめ、手柄さえ立てれば誰にでも何万石、何十万石の領地を与えた。このように気持ちよく恩恵を振る舞われれば、家臣たるもの秀吉のために命をかけるのは当然だ。秀吉が早々と天下統一できたのはこのためである。
 これは、秀吉が福を分け与えて惜しまない天下第一の人物であったことを示している。これに引き換え家康は、譜代の家臣にも気前よく知行を与えられなかった人である。
 秀吉に愛された蒲生氏郷は確かに大器であた。秀吉はこの氏郷を高く評価して会津百万石を与えた。これは秀吉の深慮遠謀で、気心の知れない伊達政宗と家康の間に氏郷を配置したのである。
 おもしろいエピソードがある。ある時、大名たちの集まりで、秀吉無きあとだれが後継者になるだろうという話題になった。氏郷は「前田利家だ」と答えた。さらに「前田でなかったら」という質問に「それは私だ」と断言したという。つづいて「なぜ家康でないのか」と尋ねられたのに対して、氏郷は「家康のように人に物をくれ惜しむ者に何ができようぞ」と一笑に付したという。
 家康は天下を取って徳川三百年の体制を築き上げたが、明治維新に際してこの氏郷の評言が形となって現われて江戸幕府は瓦解したのである。徳川譜代の大名たちは与えられた禄高がみな少なくて力が弱かったため、関ヶ原で敗れた毛利や島津など強大な外様大名に圧しつぶされたのである。これは遠くさかのぼれば、家康の《分福》の工夫の不足のしからしむところといえよう。
 平清盛は短所の多い人物だったが、《分福》の工夫において非常に優れていた。一族一門にこれほど福を分け与えて慕われた人は、日本史上でもめずらしい。これにひきかえ源頼朝は特別に《分福》の心に欠けていた人で、自分の弟である義経や範頼に福を分け与えてやらないだけでなく、禍を与えたのである。また鎌倉幕府創立に貢献した佐々木高綱に日本の半分を与えるといいながら実行せず、高綱は仏門に去った。これでは頼朝のために命を捧げる人が少ないのは当然であり、平家に忠臣が多かったのも偶然ではない。
 ナポレオンもよく福を分け与えた人であった。一敗地にまみれエルバ島に流されたが、再び起ち上がったときに集まった将兵の数は、彼の人柄を示している。
 足利尊氏は欠点の多い将軍であったが、福を分かつ心で天下の人心を把握していたので、知勇抜群の名将楠木正成、新田義貞を圧倒することができたのである。

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