2009年6月11日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第二章-3

【志は性格で生かされる】編述者■渡部昇一
 何事によらず、人間がある時間を埋めていくには、心の中にせよ手のひらの中にせよ、何かを持っていなければむずかしい。できることなら、その持っている何物かは善いものであってほしい。
 いわゆる志を立てるということは、あるものに向かって心の方向を確定することで、いいかえれば、心に何をもつかということだ。だからこそ、心に持つものが最高最善でなければならないのは自然の道理である。それゆえに、志を立てるときは、その志が堅固であることを願う以前に、まず志が高いことを願うべきである。そして志がたった後で、それを堅固なものにしたいと考えるべきだ。
 志が高ければ高いほどよいのは当然であるが、万人が万人、同じ志であるはずはない。だから各人の性格に基づいて、その人が善とする方向に心を向けていくべきだろう。
 政治で最高の地位を得て最大の功徳を世に施すのか、宗教・道徳で最上位に到達して最大の恩沢を世にもたらすのか。あるいは学問・芸術で最高の境地にのぼりつめ最高の感動を世に与えるのか、同じ最高でもそれぞれ違った分野での栄光であり恩沢である。
 そして同じ最高最上を志しても、その人間の性格がその志に適応していれば成就する可能性が高いだろうが、そうでなければ実現することはむずかしい。いずれにせよ、その人間の性格がその志にふさわしいかどうかが、決定的なポイントとなってくる。しかしこれは、あるレベル以上の優れた人々についてであって、ふつうの人の性格というものは多種多様である。肉体条件と同じように性格も高い人、中くらいの人、低い人と、いろいろに分けることができる。そしてそれぞれが、それぞれのレベルに応じた志の高さを自然に目指すものなのである。
 画家を例にとってみよう。ある人は古今東西を通じて第一人者になりたいと思っている。そして、ある人は歴史上でいえば、だれそれぐらいのレベルなら満足だとする。また、ある人は一世を風靡して食うに困らなければけっこうだという。このように性格の違いによって志の高低が現われてくる。
 また一方では非常に謙虚な人がいて、自分の志しより実力の方が高い場合がしばしばある。南宋の武将岳飛は、「三国志」で有名な関羽や張飛と肩を並べられれば満足であると信じていたが、実際には岳飛の功績のほうが彼らより数段優れていたのは事実である。また諸葛孔明も、名宰相の菅仲や楽毅を心の中の目標としていたが、実際には孔明のほうが彼らより人品・実績ともに立派であった。これらは謙遜の美徳による自己評価の低さであるが、こういう例はまれである。
 英傑は別として、われわれ凡人は百を目指してようやく十を得、十を目指して半分も得ることができないのが現実である。だからこそ、志は性格に応じて可能なかぎり高くもつことが大事だ。いかに大志を抱いてスタートを切っても、三十歳、四十歳、五十歳ともなれば意欲はおのずから衰え、ついには裏長屋で朽ち果てて終わるというのもよくあることであるから、とにもかくにも目標だけは高く揚げて飛び出したいものだ。

 仕事に限らず趣味の世界においても、心の中でも手のひらの上でも最高最善のものを持ちたいものだ。盆栽でも園芸でも安物に甘んじてはいけない。広く浅いものよりも、むしろ狭くても深く一流を追求した方がよい。
 盆栽の場合でいえば、草も木もというのではなく、木なら木、それも石榴だったらだれにもひけをとらないというぐらいの志を持って、石榴の第一人者たることを目指すべきであろう。あれもこれもと目移りせず石榴に専念すれば、第一人者になれなくても、ふつうの人の及ばない水準に到達することはたやすいことなのである。
 どんな凡庸な人でも、狙いを絞って最狭の範囲内で最高のところに志望をおくならば、成功はけっして夢ではないのだ。
 近ごろミミズの生殖作用の研究をした素人が、専門家の研究に大きな貢献をしたという新聞記事を読んだが、ごく小さい範囲で長い年月こつこつ取り組むと、このように学問をリードする優れた研究成果を上げることさえできるのである。
 人の身長(みのたけ)はおおよそ定まっているのだから、むやみに最大範囲において最高段階に到達することを望まず、比較的狭い範囲において志を立てて最高位を目指せば、平凡な人間でも知らず知らずのうちに社会に深大なる貢献をすることができるのだ。
 何事によらず、各自の性格に適応するものにベストを尽くせば、必ずその人の最高才能が発揮されて最善に到達し、本人も幸福であるし世の中の人々に大なり小なりの貢献がなされるのである。

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