「物に接する宜しく厚きに従うべし」は、黄山谷(黄庭堅。北宋の詩人)の詩の句である。人間はいつも心を温かくしておかなければいけない、ということをいっている。
人間の性状は多種で、境遇も多様である。その多種の性状と多様の境遇が組み合わさるのだから、人間の一時の思想・言語・行為はそれこそ限りなく多種多様である。
その一時の言動をとらえて、あたかもその人の全体であるかのように評論することは正しくない。善いことは善い、悪いことは悪いと評価することは間違いではないが、感情のおもむくままに白を黒と言いくるめたり、悪意を持って攻撃することは許されない。
人にとって大切なことは、いつも《やわらかみ》と《あたたかみ》をもっていることだ。「助長の作用」はしても「剋殺の作用」はしてはならない。
《助長》とは読んで字のごとしで、助け長ずることであり、《剋殺》とは切り刻み殺すということである。
わかりやすい例をあげてみよう。
朝顔の苗が根づくと、ほどよい水と肥料をやり、伸びてきたら地面に倒れないようにツルが巻きつく支柱を立ててやり、害虫を取り除いてやるのが《助長》である。反対に理由なく芽を摘み葉をむしり、幹茎を踏みにじり、がれきをぶつけて成長を妨害するのが《剋殺》である。牛馬などの家畜に対しても愛育することが《助長》である。
草木や野獣に対してだけでなく、家財道具に対しても《助長》《剋殺》の作用がある。桑の机はていねいに扱い磨きをかけてやれば、最初ただ淡黄色だったものが、しだいに桑の特質である美しい褐色の光沢を帯びてくる。楽焼の茶碗ならば、大切に使い込んでいるうちに、手触りが滑らかになてくるし、漆の箱は異臭がうせて艶も落ち着いて品もよくなる。刀は手入れをしても鋭利になるわけではないが、錆びてぼろぼろにはならない。これが《助長》である。反対に、机を汚しても拭わず切り傷だらけにしたり、古人の書画を放置して埃だらけにしたり鼠がかじるままにし、刀は錆びるにまかせるのが《剋殺》だ。
人間のまわりにある、すべての美しいもの、役に立つものは《助長》の心で接し、決して剋殺の行為をしてはならない。花は美しく笑えるように、鳥は高らかに歌えるように、羊は肥え馬はたくましく育つように助長してやるのが人間のつとめである。
人の性情は多種多様である。意識的にあるいは無意識的に《剋殺》の作用をなす者が少なくない。彼らは幼児のしつけのせいか、あるいは悪い環境の中で悪い習慣を身につけて人間がねじ曲がってしまった。その習慣はけっしてその人を幸せにするものではない。彼らの中には、自分には何ら利益にもならないのに名画名品を傷つけて意気揚々としている愚かな輩もいる。この類の人間によって、個人が傷つき世間が災害をこうむることがどれほど多いことか。まことに嘆かわしいことである。
天才画家の雪舟は、この世で唯一の存在であり、名工緒方乾山もただ一人の存在である。それを百も承知で、この雪舟の絵を破り、乾山の皿を打ち砕く愚か者は何百人、何千人いるかしれたものではない。ことほどさように、剋殺を平気でやる輩ほど無価値な存在はない。
観点を変えると、剋殺もまた一つの《造化の作用》であるから、未来を拓く変革の力にもなり得るという論法も成り立つ。こじつければ、平気で剋殺をおこなうような輩も見方によっては世の中の改革のお役に立っていると言えなくもない。しかしこれは、実社会と隔絶した超現実的な空論であって、美しいもの、役に立つものを破壊する行為を、正当化するわけにはいかない。
以上は動物・植物・器物に対しての《剋殺》《助長》を述べたものであるが、私の本意は、人の正しい思想・言動・行動に対して、みだりに剋殺的な思想・言動・行動を取らず、助長の精神で接すべきことを強調したいのである。ある人間がいて、あることを成し遂げたいと思っている。その目的が悪いものでないかぎりは《助長》の心で後押しをしてやりたい。そうすることをやりたくなければ傍観してもよいが、絶対に邪魔ををするようなことがあってはならない。
ある日、山の手の坂道で、一つの出来事を目撃した。引越しの荷物を山積みした荷車が難渋しながら坂道を登っていた。ちょうどそのとき、来合せていた二人の学生の一人が、それを見かねて後押しを始めた。ところが、連れの学生が「よせよ、陰徳家!」と冷笑したため、後押しをしていた学生は手を放してしまった。力を失った荷車は後戻りを始めて危険な状態になったが、幸いに後ろから来た別の二人連が飛び出してきて事なきを得たのである。私は肝を冷やし心が寒々となった。これは、ほんのちょっとした出来事だが、世の中にはこれに類した悲しむべき行動がたくさんまかり通っているのである。
力を貸そうとした学生の中に《惻隠の情》というか《仁恕の心》とでもいおうか、善なる感情が発動して、せっかく《助長の作用が》生じたのに、連れの邪悪な剋殺の言葉で妨害されたのである。この情景を見て愴然と立ち尽くしたが、自分でも時として、冷罵を加えた学生のような行為を無意識のうちにやってはいないだろうか と振り返ってみることがある。
われわれ欠点の多い人間は、このような剋殺の行為を無意識のうちにやっていないともかぎらない。くれぐれも心すべきことである。科学の信奉者は、宗教を信仰する人を見ると嘲笑するし、宗教の信心家は、科学の信奉者を軽蔑したりする。しかし人の性情は多種多様であり、人の境遇は多様である。自分だけを正しいものとすれば、世の中は正しくないものだらけで我慢できなくなるであろう。
だから不良でなく、凶悪でなく、凶妄でさえなければ、人の思想・言説・行為に対しては、それを容認して助長的に接し、絶対に剋殺的にならぬよう心に刻んでおきたい。
2009年6月17日水曜日
幸田露伴「努力論」を読む 第二章-4
【助長の心と剋殺の心】編述者■渡部昇一
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