2009年6月18日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第三章-1

【天地と時間の大いなる力を生かす】編述者■渡部昇一
 主観的に見れば、天地は広大であっても人の心の中のものにすぎないし、古今は悠久であっても、やはり人の心の中に存在する。
 人の心は、すべてのものを容れて余りあるもので、人間ほど大きいものはない。
 ところが客観的に見れば、人間は天地のあいだにあっては大海の水の一滴であり、大砂漠の砂の一粒にすぎない。そして古今のあいだにあっては大空の埃であり、大河に浮かんだ泡粒のようなものである。
 人間は、空間と時間の中では、まことに微々たる存在にすぎないのだ。それゆえに、われわれを包んでいる大なる空間と時間との大なる力の支配から逃れることはできない。
 たとえば日本に生まれたものは、おのずから日本語を使い、日本人の性状をもち、日本人の習慣に従う。ロシアに生まれたらロシア語を使い、ロシア人の性状をもち、ロシア人の習慣に従うことになる。このように人間は、空間の力に否応なく左右されているのである。
 時間もまた人間を拘束しており、それから逃れることは不可能だ。
 鎌倉時代の人は、おのずから鎌倉時代の言語・風俗・習慣をもち、思想感情を共有する。奈良時代の人は、否応なしに奈良時代の言語・風俗・習慣と思想・感情をもつことになる。
 人間個々の遺伝や特質によって多少の差異はあっても、その時代の持つ大いなる力が、否応なく人間をその時代の色で染め上げるのである。
 それと同じように、一年という短い時間で考えてみよう。四季という時間が、人間にどのような影響を与えているか、そしてまた人間が四季のその大きな力に対して、どのように対応し利用すべきか考察してみたい。
 一年は短い。しかし、春には春の力があるように、四季それぞれの力が人間を支配している。人間と四季との関係は、昔から感覚の鋭敏な詩人・歌人たちが、その作品の中に四季それぞれの大なる力を詠み込んでいる。
 また遠い昔から、四季と人間とは密接なかかわり合いがあるとして研究されてきた。たとえば古いシナの『呂覧』(秦代の大著『呂氏春秋』)には、四季の移り変わりにともなう自然の変化、人事の興亡の関係がくわしく説かれている。
 鉱物界には《整理》があるのかないのか不明だが、《物理》だけはあるようだ。植物界には《心理》があるのかないのか不明だが、《生理》と《物理》はあるようだ。
 石榴石(ガーネット)は成長するとか、黄玉(トパーズ)は少しずつ老いて色を失っていくという事実があっても、それは物理現象であって、生理の分野ではないようだ。
 阿伽陀樹(不老不死の霊薬とされる植物)には感覚があるとか、フライトラップ(蝿取草)は自分の意思で昆虫を獲るとか、含羞草は感情的に動くとか言われる。また、ある植物は少しずつ位置を変えて、あたかも歩いているように見えるというが、これらは物理・整理の領域であって、心理の世界のことではないようである。
 人間と動物のレベルにいたって、はじめて物理・整理・心理がともにはたらく、ということができるのではなかろうか。
 もちろん四季の力は、鉱物界に対しても影響を及ぼしている。鉱物体の隙間にある水分は冬の寒さで凍って膨張し、春の暖気で溶け去って崩壊作用を起こす。また夏の激しい日差しや長雨で酸化作用をうながしたり、秋の台風や冬の霜などで力学的・熱学的作用がはたらき、絶えず変化が生じているのである。
 植物は、鉱物に比べると当然のことながらさらにずっと大きな影響を受けている。季節による太陽光線の温度と量の変化によって異なる物理作用を受けるのはもちろんである。そして植物自体が生理作用をもっているだけに、物理作用が生理作用に影響して、生理状態が季節とともに変化推移してゆく。
 樹木の多数は春に花が咲き、夏に茂り、秋にみのって冬には眠る。
 人間は植物と四季との関係を明確に知っており、その知識によって巧みにその関係を利用して農業をする。家畜やその他の動物についても四季との関係を利用して、蜂から蜜をもらい、カイコから繭をもらい、鶏から卵をもらい、家畜から子をもらう。
 四季が与えてくれるだけの量に飽き足らず、過酷な収奪をしてはならない。かしこい人間ならば、四季の恩恵をどのくらい受けたらよいか理解できるはずである。四季と上手に付き合って順応して生きてゆくことだ。

 ところで人間は、他の動物たちよりはるかに優れた《心理》をもっている。その心理が有力である分だけ四季からの支配が他の動物ほど明確でないので、心理の力だけで動いているように見える。
 動物は、下等になればなるほど《心理》の力が弱くて、弱ければ弱いほど四季の支配を顕著に受ける。犬や馬などの高等動物は、かなり《心理》で行動するが、ナマコやナメクジなどの下等動物などはほとんど、《生理》だけで行動しているように見える。
 心理で行動することの多いものは、その動作の一つひとつが、その動物自身の意志・感情から発しているように見え、自然からの支配がはたらいていないように見える。
 とくに人類は、自意識が旺盛であるから、自己の行動は自己がコントロールしているように感じていて、自然がこれを支配しているように感じないものである。
 人間も動植物とまったく同じように、四季の作用を受けているのだから、四季が人間に及ぼす作用を正確に理解して順応し、利用するのが理にかなったことであり有益なことである。そういう理屈がわかっていながら人間は、《自意識》が旺盛すぎるため、すべての物事は自分から始まっていると考えがちである。これはたとえてみれば、自分の手のひらで自分の目を覆っているようなものである。 人類が他のものに比べて優秀なのは、疑いもなくその《自意識》の旺盛さによるものであるが、その自意識の旺盛さですべてのことが片づくわけではない。太陽の熱は、自意識の旺盛なものにも、無意識なものにも平等に降り注がれている。四季の循環は、すべてのものの上に平等に行われているのである。自意識が旺盛すぎると逆に観察の知恵がはたらかなくなって、自然の自分に及ぼす影響の本質を見落とすようにもなる。
 四季の循環が、われわれ人間にもたらしている様子を観察してみよう。
 春は、草木の芽を出させ花を開かせ、獣や鳥、魚や昆虫を冬の眠りから覚まさせて、活動できる状態にさせる。芽が出て花が咲くということは、明らかに草木の体内で生活のはたらきが盛んになって、栄養分や水分が根から吸い上げられ、幹を登り枝に伝わり外に向かって発するということに他ならない。いいかえれば、太陽の温熱が加わったり空気の湿度が程よくなって、末端が刺激されて活気を帯びてくるのである。
 春になると、鳥や獣、魚や昆虫も活動を開始する。これも植物と同じように、大気や地表の温度と湿度の変化、豊かな食べ物の出現で生命の躍動が開始される。そして夏秋冬になると、それぞれの季節変動に順応して生態も変化してゆく。
 さて人類は、四季からどんな影響を受けているだろう。
 春になれば、人間の顔にも花が咲く。黄ばみ黒ずんでいた人の顔は、紅色を帯びてきてしだいに美しくなる。ひび割れていた皮膚は潤って生気を増し、あかぎれやしもやけも自然に治り筋肉は緊張して血量も増加したように見える。
 心理状態も発揚してきて、家にこもることを嫌い外出したくなる。機械がやるような作業を嫌い、動物がやっているような意志や感情のある行動をとりたくなるのだ。
 着実なことより華やかなことを、穏健なことより過激なことを喜ぶ。理性より感情に従う傾向となり、泣くより笑いたがるようになる。
 悲しむより喜びたがる。働くより遊びたがる。
 とくに若い青年壮年の男女のあいだでは《春気発動》するーーーこういうのが春が人間に及ぼす力のおおよそのところである。

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