2009年8月24日月曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第六章-2-1

【例によって例のごとしで終わらないために】編述者■渡部昇一
 歳というものは、どこに頭があって、尻尾があるというわけではないが、昔の俳人が「定めなき世の定めかな」というように、おのずからにして人間には大晦日もあれば元日もある。
 おしまいの大晦日には一年の総決算をやり、念頭には希望をもって計画を立てて発奮し、そしてまた、歳末には計画の不首尾を嘆いて反省するのが一般の傾向である。こうして大人も子供も、秀才も凡人も「今年こそは、今年こそは・・・・・」と、年々歳々同じようなことを繰り返している。これは世の風潮であり、人情自然であってしかたのないことなのだろうか。月日が流水奔馬のごとく流れ過ぎるのを嘆き、そして青雲の志は蹉跌しがちで成就しないことを悲しむのが世の常なのであろうか。
 みんながみんな毎年そう思い、そうやって繰り返しているのを、厳しい目で客観的に観察すると、まるで下手な俳優が同じ脚本で、同じ舞台で同じような時期に、同じような思い入れで演じているようで、まことに滑稽に見える。
 「例によって例のごとし」に終わらないためには、自己を改造して《新しい自己》を生み出すしかない。人間だれしも《新しい自己》をつくりたいと考えてはいるのだが、それが成功しないから毎年、念頭と歳末に発奮と反省を繰り返しているのだ。
 なぜ努力をしても自己改造ができないのか。その理由は簡単、つまりやり方が間違っているからだ。
 新しくよい自己がつくれなかったとすれば、それは新しくよい自己をつくり得なかった道理があったのではなく、目標設定と実行の手順に大きな誤りがあったからだ。

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