2009年8月26日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第六章-2-3

【易行道を選ぶか、あえて難行道を行くか】編述者■渡部昇一
 他力にたよって自己改造するのは《易行道》(仏教で南無阿弥陀仏念仏と念仏を唱えてさえいれば、極楽浄土に往生できるという教え)であり、自力で自己改造するのはすこぶる《難行道》である。なぜ難行道であるかというと、今までの自己がよくないから新しい自己をつくろうというのに、そのつくろうというものが、やはり自己だからである。極端なたとえをすれば、自己の脚力で空に駆けのぼるような困難さがある。
 碁の場合、我流では絶対に上達しない。専門家に手引きされたほうがはるかに上達が速い。このように世間では、どうしても他力にたよって進歩していく人のほうが多く、独立独歩、自力で自己を改造していける人がきわめて少ないのは事実である。
 しかし、「自分でなくてだれが自分を改革できようぞ」という気概も欲しいものだ。自力修業の困難さは明白であるが、逃げずに真正面から取り組むことは高尚偉大な事業である。結果がはかばかしくなくても、男らしい立派な行動である。転んでも倒れても起き上がって志を失わずに進めば、確実に目標に近づいていく。のろい馬でも頑張れば少しは進む。一月の努力は一月なりに、一年の努力は一年なりに進境があるであろう。
 また自己改造の努力というものは、いいかえれば個々の理想を実現させようという努力であるから、その貴い努力が世の中を進歩させるのである。
 自己改造をしようとする人が少なくなれば、国は老境に入っていく。現状に満足するということは進歩の途絶えを意味する。現状に不満で未来に望みをかけ、自己を新たにしようという意志が強ければ、人の生命力は健在である。
 他力によって自己を新たにする場合でも、《信》というものが自己によって存在するので、他力による中に自力のはたらきがある。
 自力によって自己を新たにする場合でも、《自照》の知恵は外からの贈物であるから、自力にたよる中に他力のはたらきがあるのである。このように考え進めてくると、自力・他力を厳密に差別することが困難になってくる。

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