2009年8月16日日曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-6-1

【最高に生きる証】編述者■渡部昇一
 人の気、すなわち老子や劉邦で触れた気は、その人から立ちのぼって外に現れるものであるが、それとは別に人そのものに現れる気というものがある。この両者は似ていて異なるものである。一方が雲や煙のようなものならば、一方は色や光のようなものである。人体でいうならば、骨組みと筋肉のほかに気というものがある。この気というのは、色や光といってもよい。人相の書物にはよく出てくる表現であるが、印堂に黒気のあるものは不幸であるとか、臥蚕(がさん)に黄気が見えれば慶事があるなどという類である。正確には黒色・黄色、あるいは黒光・黄光という表現は不適切で、なんとなくそのように感じられるといったほうがよいかもしれない。
 黒気・蒼気・青気・黄気・紫気・赤気・紅気などは、その色合いからいう名で、明・暗・浮・沈・滑・薔・豪・爽などは、その光から名づけられる。そしてその気のもつ意味から殺気・死気・病気・憂気・驕気・憤気・争気などという呼ばれ方もある。
 姿・顔立ちから人の性格を判断する書物で、気のことに触れていないものはない。わが国にも『南北相法(なんぼくそうほう)』のように特色のないものから『朝晴堂相法(ちょうせいどうそうほう)』などのようにシナ伝来の思想に実験体得を神している独創性のあるものまで気を説かない本はない。この本によると、人の気は顔に現れるだけでなく頭を包んでいるとしている。そしてその気によって、豊満の相や破敗の相が見えてくるという。この本によって人相鑑定術における気の解釈は一歩前進したといえよう。
 仏像を描くとき、頭に円光を添えたり焰(仏焰)を加えたり、あるいはキリスト教の聖像に輪光を描いたりする。これらは、その徳を表現する方法の一つであろうが、いわゆる《気》なるものを朝晴堂が扱ったように、超人的な存在を形に表したようでおもしろい。
 老子や漢の高祖の気は高くのぼって天に現れ、遠方からでもこれを望み見ることができたのに、仏蛇や聖人像などの気は土星の鉢巻きや袋グモの袋のように、わずかに身体に小さく張りついた光の輪でしかない。自由奔放に筆を揮(ふる)える画家が、束縛の大きな彫刻家に一歩譲っているようでおかしい。
 シナの観相術の歴史は古く、その源を探ることはできないが、テクニック面において古い医書に通じるものがある。たとえば医術でも顔を見、色を視、気を察する。そして観相術と医術の言葉には共通のものが非常に多い。これらのことから、医術から枝分かれしたものであることは想像できるが、気に関しての見解は医家と観相家とでは必ずしも一致していない。
 医家ほど驚くほど多く《気》という言葉を用いたものはない。それだけに気に関する至言は非常に多い。ただその指すところが一つでなく、意味が多岐にわたっているため簡単に論じることはむずかしい。『太始天元册(たいしてんげんさつ)』に出てくる丹天の気・蒼天の気・素天の気・玄天の気などというのは漠然としたもので、あまり意味はないが、「決気篇」にある精・気・律・液・血・脈の六つのうちの一つである《気》には、きちんと定義してある。
 それによると「上焦(上部の消化作用)を開発して五穀の味をわからせ、膚をきれいにし筋肉を充実させ毛髪につやを与える。霧や露のように注いでこのような作用をするのが、すなわち気である」と解説している。現代風に解釈すると、いわゆる神経というものを無形物とみなして、その作用を気と名付けたように思われる。
 「気」には気息、つまり「いき」という意味があるのがふつうである。前に述べた「におい」という意味もこれに通じており、物の香りとは物が吐く「いき」である。呼気・吸気・出気・入気はみな「いき」であり、仙人の餐芝服気(さんしふくき)といい、道家の道気養性(どうきようせい)といい、あるいは関尹子が気を吸って精を養うといったのも、これらすべて気を「いき」と解釈してよい。
 人に気があるのが、すなわち生(いき)であり、気が絶えれば生もまた絶えるのである。言霊の幸わう日本では、さすがにうまくできており、気の「いき」はそのまま生の「いき」であり、生命の「いのち」は「いのうち」つまり「いきのうち」なのである。気息を示す古い日本語は「い」で、「いぶき」は気噴(いぶき)であり、病気が癒ゆの「いゆ」は気延ゆ(いはゆ)を省略したものである。休憩の「いこう」は気生う(いきはう)であり、話すという意味の「いう」は気経(いふ)である。また鼾声の「いびき」は気響き(いびき)の省略であり、奮発しようという「いきごむ」は気籠む(いきごむ)である。
 現に「生き」は「いき」であって、「生命(いのち)」は気(いき)のうちであるから、気の「いき」の意味は一転して、人間の精神・情意とそのパワー・光彩の意味となる。人の気が盛んに騰る(のぼる)ことを「いきる」といい、物の気が騰ることをも「酡る(いきる)」という。「いきりたつ」は人の意気が盛んなさまで、「いきまく」は人の気が動き燃え上がろうとする様子である。「いきおい」は気暢(いきはい)、または気栄(いきはえ)の意味。「いかる」は気上る(いきあがる)の意味で、古書の『挙痛論(きょつうろん)』も、怒るときは「気上がる」と説いている。憂いている様子を示す「いぶせし」は気噴狭し(いぶせし)の意味で、心配ごとのある人の気噴(いぶき)がのびのびとゆったりできない状態を指している。「いきどおり」は怒っても外に出せず、気が内で徘徊り(もとおり)続けている「いきもとほり」からきている。
 これらの語はすべて気の「いき」の意味を表すと同時に、気息にかかわる心身の状態を表しており、気息と人間の身心とは切り離せない関係にあることがよくわかる。気があることは、すなわち生、気を失えば、すなわち死であることは明らかである。
 気を用いた表現を神・儒・仏・道の文献の中に追求していけば際限のない話になるが、人の感情を表す怨気・争気・憤気・怒気・喜気・妬気(とき)などもあれば、人の様子を表すようなものもある。老子が孔子を評していったという驕気などがそうで、ほかには豪気・高気・福気・老気などという日本語で「ようす」にあたるものもある。村気・工気・匠気・乳気などのように田舎くさい、職人くさい、乳くさいといったような身近なものまである。
 《気》に関する根本的意味や分類・用語例などについては以上でやめて、人に気分気合の上にかかる気について説いてみたい。

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