2009年8月20日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-7-2

【科学は未来の嘘を説いているかもしれない】編述者■渡部昇一
 世界の生物たちの力が衰えないで繁茂生息しているあいだは、張る気の運の世界なのである。しかし動植物がしだいに衰萎しているのは、陰陽のバランスが崩れて気が弛み衰えようとしている世界である。現在の地球の力では、石炭になったシダ科植物を温帯地方に生えさせることができなくなってきている。そればかりでなく、欅や柏や樫などの身近な樹木さえもやがては目の前から消えてしまうのであろうか。
 生物の発生滅亡は生存競争の結果だとするが、大所高所から見れば人間が勝手につくりだした浅薄な理屈である。太陽が衰えてしだいに熱を失いつつあり、地球もすでに老いて植物の化成物である石炭を空しく遺しているのが今日の世界である。地球が衰えて巨大な恐竜や植物を生育繁茂させる力をとうの昔に失ったことなどから推論すれば、優勝劣敗・適者生存とか生存競争の論理などはスケールが小さすぎて空しくなってくる。
 巨視的に真の原因を追求すれば、ことごとく太陽と地球の力量の減耗から生じたことである。地球上のすべての個物は、本来宇宙のある力から送り込まれ、生育され、コントロールされたものだ。その力はさまざまに変化変遷して姿を変えたり、消えてしまったり、また再生したりする。つまるところ、個物は本来《現象》そのものであって、その現象とはすなわち《力の移動》の姿なのである。
 個物---現象---力の移動、これらの状態を考察し、数学的な推測を地質学・鉱物学・動植物学上の事実に基づいて下すとき、この地球の気にも張弛や盛衰があることがわかる。力不滅論(エネルギー保存の法則)は、現段階において条件を限定すれば説得力のある理論だが、あるいは金魚鉢の中の小石を回って水の長さの無限を信じる金魚に似てはいまいか。
 力が不滅とすれば、力の量は不増不減であろう。このとき力の姿を変えるのは力か。
 太陽の熱を浴びて樹木は生育する。その木を燃やせば熱を得る。
 この力なるものは、どのようにして生まれ、どのように消滅するのか。いったいどこで生まれ、どこに消えていくのか。太陽は何の力で生まれたのか。銀河や星雲は何によって生じたか。そもそも宇宙の大動力の根源は一体何であるのか。
 そしてまた、この大動力は何の力によって分裂に分裂を重ね、四方八方にと飛び散って松や桜を生み、鳥や獣を生み出したのか。どうやって何億何兆もの種類の個物を生み出し消滅させたのであろうか。果てしなく疑問は続いていく-----。
 この答えはきわめて困難である。それは今現在の最先端の科学の範囲内でしか答えることはできない。分子・原子・電子などが出てきてラジウム・ウラニウム・ヘリウムなどが登場してくるが、それでもなお宇宙のスケールを測ることはできない。
 「三角形の内角の和は二直角」というが、これは必ずしも正確とはいえない。「思考の足場になっている平面」を限定してはじめてその理論が成り立つのであって、視点が変われば条件も異なって別の答えも出てくる。つまり下を見下ろしているときは球上に立っているのだから「三角形の内角の和は二直角より大」にならざるを得ず、仰いで上を見れば無限大の卵殻の中にいるわけだから「三角形の内角の和は二直角より小」にならざるを得ないのである。
 ショウスキーやリーマンが非ユウクリッド幾何学を唱えても、それをもってすべての問題が解析できるわけではない。宇宙は人知の範囲内にとらえられてはいない。現段階での学説は今現在では真実であって、天文学も物理も化学も幾何学も力学も今のところみな真実である。ただし、これらすべて将来においてはまったく保証できない。古代の学説もみな同じこと、現代人がその誤りを指摘して笑っているが、その当時には真実だったのである。
 このような言い方をするのは、けっして現代の科学を軽んじたり疑ったりしているからではない。科学というのはあくまでも《現時点》における真実ということであって、未来永劫に絶対権威のあるものではないということをいいたいからである。
 《力不滅論》なども現段階においては納得できる。これは日本国民が日本の法律習慣に逆らわずに従っているのと同じことである。しかし、これだって時代や国家を超越してまで今の法律習慣に従えるか、はなはだ疑問であろう。力不滅論にしたところで、われわれが知り得たはなはだ狭い範囲の天体、その中のはなはだ小さい太陽系、その中のさらにさらに小さい地球の中のわれわれ人間----われわれが知れり得るはなはだ短い時代範囲、その中のさらに短い現時点においてだけは納得できる真実なのである。

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