2009年8月19日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-7-1

【運来たりて舞い、去りて伏して休む】編述者■渡部昇一
 陽にして善、明らかにして正しい気は朝において張る。朝の張る気の中に浸って、自己の張る気を保って事に当たる----、このように内外相応じている状態を《二重の張る気》という。
 ひと月には二節ある。一節は上がり潮と下がり潮とのひと巡りで、一潮は七日余である。潮は節・月ごとに少しづつ増えたり減ったりして、春は昼間の大高潮・大低潮となり、秋は夜間の大高潮・大低潮となり、春秋昼夜をもって一年の大循環を成し遂げるのである。潮や節や月の満ち欠けなどを観察して、ある潮のある時はどんな状態か、ある月齢の時はどんな様子か、そしてそれと気の張りと気の弛みとどういう関係があるか、わたしなりの見解をもってはいるが、証明するにはやや資料不足だから省略する。しかし一日において自然に気が張るときがあるように、ある節、ある潮、ある月に自然に張る気が生じることは疑うべくもない事実である。カニの肉は月によって増減し、イトメの生殖は潮によってうながされるように、命あるものはすべて自然の支配下に置かれていることを忘れてはならない。大人になった女性だけが月ごとにその身体に影響を受けているのではない。
 一年間において気の伸縮・往来・盛衰の状態は、昔から一月間におけるより明確に把握されていた。冬は冷ゆるという意味で、ものがみな凝凍(ぎょうとう)し・収縮して《凝る気》や《萎む気》を生じる。秋は明らかを意味して空疎清朗、林空しく天朗らかで気候は清澄、ものみな落ち着くところへ落ち着こうという傾向を示す。夏は生り出る、成り立つことを意味し、生気は宇宙に充満して生きとし生けるものはすべて勢いよく伸びる。
 さて春は、すなわち《張る》で、草木の芽はみな張りふくらみ、万物ことごとく内から外へ張り、水も地に満ちてくる。当然のことながら人間の気も一年の中で最も張ってくる。厳しい冬に圧し縮められていた生物は、太陽の来復とともに虫けらや草木にいたるまでみな争って動き出し萌え出して、世界はことごとく活気に満ちあふれる。
 日光・空気・温熱・風位・湿潤などの作用によって起きる変化であるが、実際地下の水までもが、いわゆる《気の芽水》というぐらい水量を増やしている。樹木の根から上がる水は水圧計が示すように著しく増加する。
人類の生理も心理も冬に比べて、はるかに興奮的かつ発情的になっている。人間の体内のことだから季節による変化は、植物学者が植物の根を切って水圧を測るような試験はできないが、自覚的にも観察的にも明確に察知することができる。
 四季において春はたしかに気の張る季節であるが、自然の張る気の時はこれだけではない。計算的に説明するのはむずかしいが、一国は一国、一世界は一世界、一星系は一星系で、張る気の時期もあれば、しだいに弛む気になる時期もあるに違いない。わが地球の寿命を論定することはむずかしい。一二万八千年であると勝手に決めつけるわけにはいかない。
 ひるがえって、今から数万年、数十万年も昔の地球は非常に高温であったことは、石炭のような植物の化石物やマンモスなどの古生物の遺跡から容易に推定できる。このような単なる温度変化だけから推測しても、地球には始まりがあり、しだいに生長し、しだいに衰え、やがて死滅していくのは明らかである。
 初めと終わりがあり、盛衰がつきものであるとすれば、一二支でいうと子(ね)から巳(み)にいたるまでは張る気の時期で、午(うま)から亥(い)にいたるまでが衰弛の時期に当たることになる。
 欧米人はすべて未来を夢想的に賞美して、時間さえ経過すれば世の中は必ず文明の光輝く黄金期に入ると考えているようだが、はたしてそうだろうか。大宇宙間の地球も手のひらの上の独楽(こま)と同じであって、うまい具合に回転して立っていられる時間はいくばくもないのだ。パワーが尽きれば倒れてしまう。運がやって来ると立って舞い、時が過ぎれば伏して休む----これが自然の姿ではないだろうか。

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