2009年5月9日土曜日

経済的軍国主義・経済的国民皆兵主義

出典:長沼伸一郎著 現代経済学の直観的方法

経済社会の「鉄道網」
 大変面白いのは、経済の世界でもほとんど同時期に並行してこれと極めて良く似た変化が起こっていたということである。農民と貴族・戦士階級の二つに分かれていた伝統社会においては、経済活動もどちらかといえば牧歌的なものだった。
 しかしこの時期、そうした社会は急速に破壊され、牧歌的雰囲気もまた消えてゆく。そして経済の規模は突然急角度で上昇を始め、一方それを支えるため、国民のすべてが好むと好まざるとにかかわらず、その苛烈化した経済活動に直接的に参加することになった。
 たとえ前の時代の牧歌的な経済にどれほど郷愁を抱いていようとも、隣国がそういう苛烈な経済に移行してしまったならばもはや選択の余地はない。それに対抗できる力を身に着けねば、経済的に征服されて植民地となってしまうのである。
 悪い言葉で言えば、近代資本主義というのは、経済的軍国主義、経済的国民皆兵主義であったと言うことができる。そして、その中枢にあったのが経済世界の鉄道網というべき、銀行を中心とする資金輸送網--金融機関--なのである。
 これら銀行(もしくは投資銀行)は、資本主義経済が必要とする大量の資金を、まさに必要とされる場所に迅速に移動させることを可能とし、またすでに興された事業に対して連続的に補給を続けていくことを可能とした。
 ビスマルク時代のドイツというのは、これらの並行的は変化が最も劇的に進行した、その典型的な例と言っていいだろう。軍事の側では国家が明白な軍事目的からいわゆる「ライヒス・バーン」すなわち国有鉄道の整備に全力を上げてその軍事能力を向上させ、一方経済の側では「ライヒス・バンク」すなわち中央銀行が設立されて、その管制のもとに投資のための銀行網が整備されていった。そして両者は二人三脚の格好でドイツ帝国を近代的強国に押し上げていったのである。
 この時代の戦争においては、戦争の問題を理解するということは、国家の兵力動員能力データと鉄道網の二つについて理解することとほぼイコールであると信じられていた。要するに鉄道が軍隊のサイズの上限を取り払ってしまったため、戦争の問題はすべて数量の問題に還元されてしまったわけである。
 そして資本主義経済に関してはこれは一層の真実であって、国民総生産だの何だのといったマクロ的な国家経済データと「資金の鉄道網」の二つについて理解することが、経済問題を理解することとかなりの程度までイコールなのである。
 実際もし資本主義社会というものが本当に金の力で何でも可能になる世界であるならば、資本の投入量の多さで勝負をつけてしまうというのは本質的に理にかなった戦法であり、それ以外の細かい問題にこだわっても仕方がないということになる。
 つまり近代資本主義社会においては、銀行家や財務マンというのは、本質的に鉄道網を掌握する参謀将校に相当する存在である。英雄的ロマンティシズムと無縁であるという点においても両者はよく共通しているが、実際資本・資金の輸送任務に従事する彼らこそ、ある意味で資本主義経済という一大戦争の主役なのである。
 伝統社会においては、経済の問題はせいぜい農地からどれだけの農産物が収穫でき、それを荷車に積んでいけばいくらで売れるか、といった程度のものと大差なく、要するにそれは農産物だの製品だのといった、ずっしりとした物質と結びついていた。
 しかし資金の鉄道網が戦場を支配する資本主義経済の世界はそういうわけにはいかない。そこで以下に、この鉄道網の問題を中心に据えて社会がそれ以前と以後でどういう相転移を起こしたのかを見てみよう。

戦争の主役は財務・銀行家 金の力でなんでも理解

ずっしりとした大地の恵みと人々の交易、大切なことを気づかせていただけました。

つづく

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