2009年5月9日土曜日

床下に大金を埋める訳

出典:長沼伸一郎著 現代経済学の直観的方法


中世世界と貯蓄
 どうも思うに、中世の世界においては人々は金・マネーというものを、一種の核燃料のようなものだと感じていたようである。確かにそれは社会を動かす燃料として大きなパワーをもっている。しかしそれはむき出しで放置しておくと社会の中の精神面を拝金主義という放射能で致命的に汚染する。
 庶民が質素に生きていくのに使われる金ぐらいなら、それはせいぜい天然ウラン程度の害しかもたらさない。しかしある程度それが一か所に集中してしまうと、それは濃縮ウランになってしまって放置は危険だというわけである。
 そのため中世においては、カトリックにせよイスラムにせよ、原則として利息というものを禁止していた。というより、貯蓄という行為そのものをあまり望ましいことだとは考えていなかったのである。
 そのためカトリック教会は基本的に次のような方針をとった。それは余剰の核廃棄物を生み出してしまった人間(要するに金持ち)に対して、そんな大量の金を手元に置いておくと魂が汚染されて地獄に堕ちると脅しつけ、それを教会に寄進させた。集められた金は教会の地下にしまい込まれて世の中に出てこなくなったのである。
 いわば教会は核廃棄物の貯蔵庫でもあり、そうやって片っ端から富を社会から吸い上げて地下に封じ込める、いわゆる退蔵ということを行っていた。近代人の目からは一種の搾取にも見えるかもしれないが、そうやって天国への切符の引換え証を発行していたのだと思えば、これはこれで一本筋の通った方法である。
 そうやって富が教会に集まってきたため、一説によると当時のドイツやフランスでは国全体の富の実に半分以上を教会が持っていたと言われる。とにかく余分な富を集めて教会の床下に埋めてしまうというこの方法は、安定した農村社会を維持するという点では一定の成果を上げることができた。
 しかし結局この方法は矛盾を来してしまう。それは集中した核物質によって他でもない、聖職者自身の精神に汚染を来してしまったことである。金というのはどにかくじっと眠らせておくことが難しい。これだけの資金が集まってしまうと、どうしてもそれを融資に使おうという誘惑の手が内外から伸びて来るのである。
 そのため中世末期のローマ法王の中には、聖職者だか銀行家だかよくわからない人物が多く見受けられるようになってしまった。そしてそこを突かれて宗教改革が台頭してしまったわけだから、結局はこの方法がカトリック世界の墓穴を掘ってしまったことになる。
 一方イスラム文明について見てみると、彼らはこれとは少々異なるアプローチをとっていた。カトリック教会が意識的に社会を貧しくしようとしたのとは対照的に、イスラムは富というものが社会に行き渡ることを容認した。
 もっとも富というものがもたらす汚染を理解するという点ではカトリック教会と同様だったのだが、ただ違うのは彼らが富の集中を阻止することに主眼を置いたことであり、要するに濃縮されない限り、ウランは社会に出回っていてもさほど害はないというわけである。
 そして彼らがこの目的のために採用したのが「喜捨(きしゃ)」という手段だった。要するに金持ちが貧しい者に施しをすることを信との基本的義務に据えたわけである。現代西欧的な人間の目からすると、これはいかにも偽善めいて、実質的には到底うまく機能しないもののように見えるかもしれない。しかし意外にもこれは相当長期間にわたってちゃんと機能していたらしい。
 というより、現在でも中東ではこのシステムは結構機能しているらしく、例えばエジプトなどでは今でも年末になると、紳士がお札をたくさん持って街に出て、貧しい人々にそれをばらまく光景が見られるとのことである。むしろ問題は、こういう習慣に悪乗りして巨額の施しを稼ぎ出す「プロの乞食」がいることで、最近スーダンで見つかった凄腕の乞食に至っては、現代スーダン大卒男子の平均初任給の約800年分に相当する資産を乞食稼業で稼ぎ出してしまったというから仰天する。(保坂修司「乞食とイスラーム」筑摩書房)
 この種の「喜捨」に関しては、受け取った側もそれを当然のこととして、あまりお礼を言わない。このため、表向きの経済統計がかなり悪くても、社会そのものは西欧よりも遥かにそれに耐えられるもののようである。
 このような社会においては、せっせと貯蓄に励む人間というものは周囲から一体どんな風に見られるだろうか。ごく控えめに言ってもその人物は信徒としての義務の一つを全然果たしていないわけで、家庭用遠心分離機でウラン濃縮に熱中するこの人は、何か他の場所でよほど良いことでもしていない限り、近所から白眼視されることは避けられまい。
 さてカトリックとイスラムは、両者のアプローチは異なるものの、目的とすることにそう違いがあるわけではない。そして両者とも「利息の禁止」ということがもう一方の基本にないとうまくいかないことは明らかだろう。
 要するにまとまった金が誰かの手元にあったとき、まず利息を禁じておくことで、労せずしてそれをどんどん増やせるという希望を遮断しておく。こうして金を集中して温存する意義を失わせた上で、一方は天国行きの切符と引換えに教会の地下に吸収させる、もう一方は貧困層に分散するという手段で、その過度に集中した富に撤退路を与えるのである。
 このようにして、中世の文明は大変な労力を払って資本主義の成長をむしろ意識的に抑制しており、またその際に用いられた手段は極めて巧妙なものであった。近代はそうしたやり方を搾取というレッテルを貼って非難したが、別に彼らはそうすることで富を独占して贅沢を極めようとしていたわけでもないし、逆に近代資本主義の理屈を極限まで剥き出しにした80年代自由主義がバブルの温床となったばかりでなく、特に米国では明らかに貧富の差の増大を招く仕掛けになっていたことを思い出すと、少なくとも搾取という言葉だけは適合しないようである。
 さて以上、近代において経済社会に一種の鉄道網が誕生したことで、人類社会がこのような「相転移」を体験したことを大まかに見てきた。では次に、その「経済社会の鉄道網」のメカニズムについてもう少し掘り下げて見てみることにしよう。


拝金主義 「利息」と「貯蓄」で 天国行けず


『遮断』 『吸収』 『分散』 中世のこの手法は十分現在に通用すると思いました。

つづく

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