2009年5月10日日曜日

くるくる金貨(@_@)

出典:長沼伸一郎著 現代経済学の直観的方法

金貨の循環がもし目で見えたら・・・
 社会においてはおよそ大部分の人間が、何らかの形で生産者であると同時に消費者でもある。言葉の意味を広くとれば、すべての人間が生産者と消費者を兼ねており、片方だけの人というのを現代社会の中で考えることは難しい。実際現代人は家でポテトチップでも食べながらニュース番組を見ているときにはまぎれもない消費者だが、翌日ネクタイを締めて電車で会社に行けば生産者に早変わりしてしまう。よく弁護士などは「消費者の権利」というが、もしそれを極限まで追求すれば大部分の人は自分の首を締めてしまうことになるのである。
 とにかく経済学のやっかいな点の一つというのが、すべての人間が一枚のカードの裏表のように生産者と消費者の二つの顔を持っていて、それがくるくる回って立場を変えながら日々を送っているという点である。
 ここで次のような状態を考えてみよう。いま、ある都市を考えて、そこでは経済活動というものがすべて都心部に集中している一方、住宅と名のつくものは全部郊外にあり、両者が極度に分離している。つまり物資や商品が全部都心のデパートに集まっていて、住民は毎日電車でそのデパートに買い出しにくるわけである。
 また経済活動が全部都心に集中しているため、およそ職場と名のつくものは全部そういうデパートのようなもので占められているわけであり、皆が毎日そこへ通勤してくるのである。要するに典型的な郊外型サラリーマンの生活パターンなのだが、ただ一つユニークなのは給料を毎日その都度日給の形で、しかも金貨で支払っていることであり、ちょっと古いのか新しいのかわからない奇妙な経済生活が営まれているとする。
 さてもしここで金貨全部に発信器が仕込まれていて、金貨の位置や分布を上空から衛星でトレースできるようになっていたなら、スクリーン上にはどんな映像が写るだろうか。
 恐らく毎日夕方になると、金貨の位置を示す輝点は都市部から外へ拡散を始め、線路沿いに郊外へと下って周辺に散っていくだろう。これは多分、一日の稼ぎをポケットに入れた旦那さんたち(ということにしておこう)が電車で家に向かっているのである。その夜の間、輝点は散らばった状態のまま動かない。
 そして次の日の昼ごろになると、輝点は再び都心部に向けて集まってくる。この時の金貨は、食料雑貨の買い出しのためにデパートへ向かう奥さんたち(多分)の財布とともに移動しているのである。
 一つの世帯の中で、ここでは旦那さんは生産者を代表しており、一方奥さんは消費者を代表している。つまり前者の輝点の動きは生産者たる旦那さんが稼ぎを家庭に持ち帰る流れであり、後者の動きは消費者である奥さんが金を買い物に使いに行く流れである。つまり金貨はこうやって毎日循環を繰り返しているのである。
 ここで話を簡単にするためもう少しモデルに手を加えることにする。つまり都心部に恒常的に留まって活動を続ける金貨があると、話の上で邪魔なのでそういうものは消してしまい、すべての金貨が夕方には都心を後にするとしよう。つまりここでは、会社の資金的なやりくりがその日ぎりぎりのタイトな状況になっており、会社はその日の売上げで得た金貨をそのまま従業員の給料支払いに使わねばならないとするのである。
 これと同様に、家庭の方では旦那が夕方持って帰ってきた金貨を翌日に奥さんが買い出しでみんな使い果たしてしまう状況にあったとする。すべての部門がそういう状況にあったとするならば、スクリーンの映像はどうなるだろうか。
 恐らく夕方になると、輝点は郊外に分散する一方、都心からはほとんど消えて夜の間は都心部分の映像は真っ暗になっていることだろう。そして翌日の昼ごろになると、今度は都心部分が再び集まってきた輝点によってまばゆいほどになる一方、郊外からは輝点が消えて真っ暗になる。そしてその状態は、それらの金貨が従業員に配られる夕方までの数時間続くことになるわけである。


すべての人間は生産者と消費者の2つの顔を持って生活している。



つづく


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