2009年5月10日日曜日

逃げ足

出典:長沼伸一郎著 現代経済学の直観的方法

貯蓄で社会が貧しくなる

 さて今の話が貯金の話と一体どう関係があるのか。それは、こういうその日暮らしの金銭受渡しの真ん中に立っている人間に注目するとよくわかる。デパートの店長は、その日の売上げで得た金貨を夕方に従業員に配ってしまうのだが、もし昼にデパートにやってきた奥さんたちが揃いも揃って締まり屋ばかりだったらどうなるだろうか。
 要するにあまり物を買って帰らず、したがって普通に比べると半分ぐらいしか金貨を落していってくれなかったというわけである。この場合、店長は夕方にひどくばつの悪い思いをすることになる。従業員を集めて、今店にある金貨を残らずかき集めても普段の半分ぐらいしかない。したがって全部を皆に分配しても昨日の半分しか払えない、と宣言しなければならないのである。
 従業員は、日当が半分になってしまったことに文句を言うかも知れないが、ないものはないのだから仕方ないだろう。しかしもし彼らの奥さんたちが実は昼にその店に来た例の締まり屋の一人だったとすれば、それはいささか皮肉な結末であり、奥さんの節約が、夕方に旦那の日当の半減という形になってかえってきてしまったわけである。
 このように、一枚のカードの裏表に消費者と生産者の二つの顔を持つため、それがくるくる回転しながら雪ダルマ式に経済活動は小さくなったり逆に大きくなったりするのである。そしてうっかり節約を始めてしまったため、それが縮小への雪ダルマをスタートさせてしまうということもそう珍しいことではない。節約ということは貯蓄と表裏一体の関係にあるため、ここで話は貯蓄というものの責任論に進んでいってしまうというわけである。そこで、これをもう少し詳しく見てみよう。
 今ここで、電車を毎日上ったり下ったりする金貨が全部で100万(単位は円でもドルでも何でもよい)だったとしよう。これは同時に、この社会に出回っている金貨の総量でもある。要するに毎日夕方に合計100万の金貨が下り電車に乗り、都心に残る量はほぼゼロとなる。逆に昼ごろになるとやはり合計100万の金貨が上り電車に乗って、郊外に残る量はほぼゼロである。
 さてここで、市民全部に突然貯蓄の意識が芽生えたならば一体どういうことになるのだろうか。つまり彼らは、毎日稼ぎの1割を我慢して使わず、その金貨を裏庭に穴を掘って埋めておこうと決意したのである。
 最初の日は、夕方にまず100万の金貨が下り電車で郊外に向かう。
 さて各家庭に分散した金貨100万は、彼らの決意にしたがってそのうちの1割すなわち10万がその夜、それぞれの裏庭に埋められる。
 そして翌日の昼ごろ、奥さんたちの財布とともに上り電車に乗る金貨は90万でしかない。
 そうなると、この日のデパートでの売行きは悪い。しかし最初から上り電車に乗ってきた金貨が90万しかないのだから、それ以上の枚数がデパートの売り場に落されるはずもない。かくて夕方には店長たちは従業員をなだめたりしなければならない羽目に陥るわけだが、騒いだところでないものは致し方なく、その日は90万の金貨が不満顔の旦那たちと一緒に下り電車に乗る。
 さて家へ帰ると給料が減ってしまったという暗い知らせが家族に伝えられる。経済状態に暗雲の兆しが見えると、将来が心配になってますます貯蓄に走るというのが人情ゆえ、彼らは(よせばよいのに)またその90万の中から1割を無理やり貯蓄に回してしまう。
 つまり9万が新たに裏庭に埋められて、翌日の昼に奥さんたちの財布と一緒に上り電車に乗る金貨は合計81万である。
 放っておけば、このサイクルは恐らく次の日も再び繰り返され、次の日の給料は74万弱に減ってしまうだろう。かくて下手に金を貯めようなどという根性を出したばかりに、給料はどんどん減っていってしまうのである。
 単純化して考えると、これが行き着くところまで行って100万全部が裏庭に埋まってしまった時点で、皆がこれはいかんと気づいてそれを一斉に掘り起こし、消費に投入すれば元の姿に戻ることにはなる。
 しかし現実には話はそう簡単ではなく、業績が落ち始めた時点で会社は首切りを始め、工場は閉鎖されて機械は錆び付いて壊れ、失業者の暴動で社会は荒れ始める。それを元通り戻すのは、ただ金貨を裏庭から掘り出したぐらいでは到底足りまい。とにかく経済社会というものは一旦後退を始めると逃げ足がついてしまうものである。
 自由放任の「神の手」の教義からすれば、およそ経済社会というものは本質的に負のフィードバックが働いており、それゆえ安定だということになってはいる。しかし今の話を見ると、少なくともこの局面に関する限りフィードバックは本質的に正であって極めて不安定なものであると言わざるを得ない。
 せめて、給料が減り始めて将来が心細くなった時に、貯蓄なぞやめてしまって裏庭の金貨を掘り出し、景気づけにそれを派手に使ってしまえというような豪快な人々ばかりで構成される社会であれば、ちゃんと負のフィードバック構造を作り出すこともできようが、現実には人々は遥かに小心翼々としているので、そんなことは望むべくもなかろう。
 このように、非常用食料の備蓄よろしくその目的でせっせと行われる貯蓄や節約というものは、それをあまり熱心に行うと社会をどんどん貧乏にしてしまう恐れをはらんだ代物である。
 なお参考までにつけ加えておくと、経済社会というものがこのようにフィードバックが正で本質的に不安定だと考えるのが、ケインズ学派に多く見られる傾向であり、一方フィードバックが負で本質的に安定だと考えるのが、アダム・スミスの亜流たる「古典派(および新古典派)」の特徴である。
 またつけ加えておくと、節約のこうした逆効果については、古代中国の諸氏百家の時代にも似たような議論が行われていたらしく、絶対平和主義を唱えていたことで知られる墨子(彼の思考方法というのは西欧の大陸側のキリスト教徒にやや似たところがある)が倹約主義を唱えていたのに対し、「中国のアリストテレス」と呼ばれた荀子(一般には性悪説で知られているが、実際にはバランスのとれた冷徹さがそう呼ばせるに過ぎない)は、「墨子の倹約主義はかえって社会を貧しくする」とその論理の不備を突いている。
 これは別に今までの議論のように貨幣の循環ということを論拠としたわけではないが、緩めるところを緩めて経済のパワーを伸び伸び発揮させて生産力そのものを強くすれば物資の不足など起こらないという発想は、それを延長すれば近代経済学のそれに近い。少なくとも現代的観点からすれば、馬鹿正直な倹約論を説いた墨子よりも荀子の側に分があったというべきだろう。
 さてそうは言っても、われわれは現に貯蓄ということを行っているし、にもかかわらず社会は経済的に繁栄している。ここのところは一体どうなっているのだろうか。






突然芽生えた過度の貯蓄と節約は


 社会を貧乏にする恐れをはらむ


つづく

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