2009年6月28日日曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-1-1

【風の中の灯火のような心で何ができるというのか】編述者■渡部昇一
 光には静かな光と、動く光とがある。
 静かな光とは、密室の中の灯火の光ようなものである。動く光とは、風が吹く野辺の焚火の光のようなものである。
 光は同じ力であると仮定しよう。しかし、静かなる光と動く光とでは、その力は同じでも、そのはたらき具合は同じではない。
 室内の投下の光は、細かい文字の本をよませて暮れる。しかし、風の中の日の光では、かなりおおきな文字の本でもよみづらいではないか。アーク等の光は強いけれども、それで新聞は読みづらい。室内電灯の光は弱いが、読書にはとても役立つ。こんな具合に静かな光と動く光とでは、そのはたらき具合に大きな差がある。
 心が同じ力だと仮定しよう。しかし、静かに安定した心のはたらきと、動いて乱れた心のはたらきとでは大きな違いがある。ちょうど、同じ力の光でも、静かな光を動いている光とでは、そのはたらきに大きな違いがあるのと同じである。
 散る心-----すなわち《散乱心》は、そのはたらきのおもしろくない心である。動き乱れた心は、たとえてみれば風の中の焚火のようなもので、いくら明るそうに見えても、物を照らすはたらきにおいては具合が良くない。
 《散乱心》とはどんな状態の心か。一口に言えば定まらぬ心のことであるが、それには二種類ある。一つは《有時性》のもので、もう一つは《無時性》のものである。
 有時性の散乱心とは、今日法律を学んだかと思えば、明日は医学を、今月文学を納めていたかと思えば、来月は兵学を納めるといったようなものだ。
 無時性の散乱心とは、一時に二つも三つもの物事を考えて気が散るというものだ。さらにもう少しくわしくいえば、心は本来一時に一つの物事を考えるものなのだから、長期的散乱心と短期的散乱心とがあるということなのである。つまりこの場合は、時間の長短の差があるだけで、有時性・無時性という具合には分ける必要もないのである。しかし、いずれにせよ、これらはちょうど風の中の灯火がちらちらするように、心が静かに定まらず集中しないさまをいうのである。
 たとえば、今数学の問題を考えていて、aだのbだの、あるいはmだのnだの、xだのyだのをこね回しているかと思えば、目の方向はabmnxyと書かれた紙の上にあり、しかもえんぴつを握っているのに、心はいつの間にか昨日観た映画のシーンに釘づけになっているのだ。そして、ヒロインの美女の後をつけて小川の橋を渡り損ねた痴漢が水に落ちるところで、ハッと我に返って、あっいけない、今は数学をやってたのだと、またaプラスbの3乗は・・・・・・と、振り出しの戻ったりする。
 またxだのyだのこねくり回していると、外で犬の鳴き声が聞こえる。するといつしか伯父さんのお供をして猟に行ったことを思い出す。銃声一声、もうもうたる白煙が消えるときには、はや猟犬がカモをくわえて駆け戻ってくる。あの時は愉快だったな、と思い出はどんどんふくらんでいく。あっいけない、数学だ、ルートpマイナスqは・・・・・・と、また我にもどる。
 ことほどさように、気は散りやすいもので、だれしも経験することであろう。このように風の中でちらちらする灯火のような心のありようでは、物を照らしてみてもはっきりと見えないから、どれほど優れた資質をもった人でも仕事がスムーズにはかどるはずがないのである。おもしろくない心の状態である。
 今もし剣を取って人と戦っているとすれば、心が外に逸れると同時に切り殺されてしまう。またもし、ちらちらする心で碁を囲めば、深謀遠慮な手どころか、うつけ千万な悪手を打つこと間違いなしである。算盤でやさしい寄せ算をやっていても、気が散ってしまえば桁違いまでしてしまう。ましてや散乱した心では高遠で難解な理論を説いた書物など理解できるわけもなく、大きな事業や優れた芸術が生み出せるわけがない。
 学業成績の悪い学生を見ると、それらの多くは聡明さに欠けているせいではなく、どちらかといえば気が散り心が乱れがちな性格の持ち主であることがわかる。世間の落伍者を観察すると、他の原因による失敗者ももちろんいるが、心気散乱の悪癖によって少しもまとまった業績が上がらずに、空しく年を取ってしまったものが非常に多いということができる。

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