2009年6月29日月曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-1-2

【仕事を学びの心を迷わす心中の落書き】編述者■渡部昇一
 《気が散る》のと反対に、《気が凝る》ということがある。この気が凝るというのもまたよろしくない。しかし、場合によっては、気が散るより始末がよいこともある。芸術などの分野で凝れば、最上といえなくてもなにがしかの結果を残すから、散る気に比べればまだしもといえなくもない。ところが玉突きに凝ったりすると、二六時中玉突きの場面を考えていて、道路をビリヤード台に、歩いている人を玉に見立ててキューを突き出すことを夢想する。手前の坊主頭の右端をついて、その前の女学生の右端に触れさせ、向かいの床屋のドアにあてて戻ってきた玉があの角帽に当たれば五点だ、など考えて思わず持っていた傘で前の人の頭を突いてしまう、ということだってある。まして博打などというものに凝るという段になると、これはもう気が散るよりはるかに救いがたい。
 さて、この《散る》と《凝る》とは正反対であるが、これはあたかも昼と夜が正反対でありながら相呼応しているように、あるいは、白と黒は正反対でありながら白は黒に移行し黒は白に移行するように、そして、乾(天・陽)と坤(地・陰)とは正反対であっても《乾》は《坤》の分子である(陰)を招かざるえないし、《坤》もまた《乾》の本体である(陽)を呼び寄せざるを得ないのと同じように、《散る気》は《凝る気》を呼んだり《凝る気》が《散る気》を招き寄せたりもするのである。
 いずれにせよ、散る気も凝る気もよろしくない。気が散ったり気が凝ったりしながら、何事もなしえずに五十年の人生を終えてしまうのが、われら凡人の現実だ。
 少年のときはだれしも《純気》である。赤ん坊はさらに純気である。それが歳月とともに自然に嗜欲が生じてきて雑駁となり、純気は正反対の《駁気》に変化していく。少年時代にはボールがあればボール投げをやり、友達がいれば駆けっこなど、単純な遊びでも夢中になって興じた。どんなことに対しても、心はそのことでいっぱい、そのことが心にいっぱい、嬉々として学問もすれば遊戯にも打ち込んだ。
 ところが成長するにつれて、だれしも何かに凝り出すようになる。嗜欲が生じてくるようになると、しだいに《純気》が衰えてくる。そして内なる欲望が日に日にふくらんできて、《外物・外境》に追随するようになってくる。物が目の前を去っても、心はなおもそれを追っている。状況が変わっても心はそこから離れられないのだ。
 たとえていえば、目の前にボールがなくなって、手の中には羽子板がある。ボールが好きだと心がボールを追っており、ボールが心の中に消えずに残っているため、羽子板をもっていながらボールを思っている。こういう状況を《外物》に追随するという。そして、今教室にいながら昨日楽しく遊んだ公園を思い出しているのを《外境》に追随するというのである。
 鏡にたとえれば、物の姿形がはっきり映らないで、何かの汚れが鏡面にこびりついているような状態である。この鏡面にこびりついているものが、すなわち《気の凝り》なのである。また鏡の全部はっきりしないところが、すなわち《駁気》だ。このように、歳月を経てしだいに《純気》の徳を失い、明るいところもあれば暗いところもある鏡のような雑駁不純なものになっていくのが、凡庸の人の常なのである。
 そのありさまは、ちょうど鏡面に墨で落書きをしたようなもので、これが普通人の心の状態そのものである。その落書きこそがその人の得意や失意、憤怒や悶え、妄想や執着などの心の記録である。そして歳を加えていくにつれて、さらに鏡面の落書きは増えていき隙間もないぐらいになってしまう。そしてついには物をはっきり映し出す鏡本来の機能が消え失せてしまう。こうなってしまえば、あたらしい学問知識を正確に吸収することは非常に困難である。
 この鏡面があらかた真っ黒になってしまって、今現在向き合っている対象の全体像を正確に映し取れない状態こそが、まさに《散乱心》の実態なのだ。《散乱心》では、黒い落書きの隙間でちらちら見え隠れしている、あいまいなものの姿しかキャッチすることはできない。じつにあわれなことである。
 もし、仕事をするとき、あるいは思索するときには、まず自分の心の状態を真剣に点検してみて、《気が散る》気配がちらりとでも感じられたら、意識が集中することができるように工夫し、散る気配の悪癖を治さなければならない。気が散る習慣が身についているようでは、当面の問題と全身全霊をあげて取り組まなくてはならない。
 どんなに運が強い人でも、多才な人であっても、気が散る習慣が身につくと余計な苦労も多く、はかばかしく事が運ばないから、散乱心と手を切ることだ。

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