2009年6月30日火曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-2-1

【気を練り上げれば道はおのずと開ける】編述者■渡部昇一
 気の散る習癖のおある人は、どんな様子をしているか。
 まず、いえることは、瞳に落ち着きがないことだ。目の功徳は、仏典のたとえによると完璧円満を示す三百六十や三千六百までは届かず、二百四十ないしは二千四百ほど欠けていて、百二十や千二百ぐらいのものだという。つまり、三分の二は見えていないのである。そして、目には動くというはたらきがあるから、見ようとすれば四方八方が見えてくる。ところで、この目の動きというものは、つまりは心の指す方向に動くということだ。その心の指す方向がちらちらして定まらなければ、瞳もじっとしておれず、それにつられてちらちら揺れ動いて落ち着かないのである。
 気に散る人は、瞳が本来の場所に定着できず、いつもちらちらと動かしている。そして、気が沈んだときには目の動きも鈍くなり、目は気に置き去りにされて、気だけ忙しく動き回っているのである。
 次に、気の散る人は、耳のはたらきが疎かになりがちである。耳の機能は本来完璧なものであって、四方八方どこから話しかけられても完全に聞き取ることができることになっている。ところが、気が散る習癖のある人は、人と対話をしていても話の筋道を聞き外すことが多い。これは耳が突然遠くなるわけではない。気が散ることによって耳が時おり留守になるのである。
 目が物を見るはたらき、耳が声を聞くはたらき、心が情理を考えるはたらきは、もともと一つの種子から出ているのである。このたった一つしかない種子が、気が散る習癖のために行方不明になってしまったら、どうなるか。心ここにあらざれば見えども見えず、聞けども聞こえず、思えども思えないという状態になってしまう。もうこうなったら収拾がつかない。
 人と大事な話し合いを終えて、「ところで何の話でしたっけ」と聞き返すような按配だ。この話し合いのあいだに何をしていたか。自分の商売の駆け引きを思いめぐらしていたり、昨夜の酒席で会った芸者のお世辞を思い出したり、心が留守になっているから耳のはたらきが停止していたのである。
 熱心に相手の話を聞いているように見えても、ちらちらと心が散ると、虫が物をかじったように穴だらけになって、首尾一貫前後相応した形で明瞭に理解することができるわけがない。こんなことでは、たとえ釈尊にお目にかかって教えを受けても、孔子からじかに道を学んでも無駄なことだ。馬の耳に念仏である。

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