2009年7月1日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-2-2

【心の血行と身体の血行の不思議な関係】編述者■渡部昇一
 散る気のある人のうち、陰性の人は《蝉殻蛇蛻ぜんかくだぜい》の相を表わし、陽性の人は《瓢葉驚魚ひょうようきょうぎょ》の状態を示し、中性の人は陰陽両者の特性を交えた現れ方をする。
 陰性の人というのは俗にいう内気な人で、こんな人の気が散れば蝉の抜け殻か蛇の抜け皮のようになってしまう。机の前に座ったきり、あるいは火鉢に取りついたまま手足の力が抜けたように無気力となり、ほとんど活動をしなくなる。それでいながら心の中ではとりとめなく、ちらちらと物思いをしている。
 陽性の人というのは俗にいうマメで活発な人。こういう人の気が散ると、空中に舞う木の葉や物音に驚く魚のように、ふわふわそわそわ右往左往したり、ものに敏感に反応して驚いたり、笑ったり怒ったり落ち着きのないことはなはだしい。本を閉じたり開いたり、急に鉛筆を取ったり、爪を切り始めたり、その途中で外に出たりする。
 中性の人は陰陽両者の特性を併せもち、落ち着いているかと思えば、うじうじしたり、そわそわしたりして、どうもつかみどころがない。
 しかし第三者が見て異常に映る挙動は、すでに気の散る習癖がかなり重症であることを示しているから、真剣に自己改革に取り組まなくてはならない。努力すれば、この悪習も必ず直すことができる。あきらめずに挑戦してみることだ。
 つぎに見られる現象として、気の散る習癖があると、血の循環が悪くなることがあげられる。
 血の運行は、気と密接に連動している。血は気を率いもすれば、気に従いもする。気と血が一体となっている状態がすなわち《生》であり、離れ離れになった状態が《死》なのである。気と血は不可分の関係にある。
 気力が旺盛であるということは血行が雄健だということで、血行の委縮はすなわち気力の消衰ということである。試みに血行を盛んにしてみるとよい。たちまちにして気力がみなぎってくることがわかる。
 たとえば直立して胸を張り、拳を固め頭をもたげ視線をまっすぐに、横綱が土俵入りしたような堂々とした姿勢で両腕を動かすこと数分、力を込めれば身体は温かくなり筋肉は緊張してくることがわかる。そのときは血行が盛んになっているのだ。そして、そのときの気力はどうであろう。それをやる前の気分と比べたら明確な差異が感じられるだろう。
 もう一つ例をあげれば、温浴あるいは冷浴である。入浴後の精神の爽快さは、主として血行の増進によって気が伸びやかになるためである。血が動けば気が動き、気が動けば血も動くのである。血と気は生きている限り一体である。いや、一歩進めていえば、血が動いているあいだがすなわち気があって、気が尽きないあいだがすなわち生きているということなのである。
 血が動けば気が動くから、血行がいつもより早くなれば血が上がり、高ぶり、猛り強まるし、血行が遅くなれば気が下がり、沈み、萎み弱まる。
 気が動けば血も動くから、怒れば血行は早くなる。悲しめば血行は低くなる。楽しめば水が地上を走るように整然としているが、驚き恐れれば血行は流れに石を投げ込んだように乱れる。
 気が散る習癖のある人は、どうも血行がよくない。どのようによくないかというと、多くは血が下降する傾向があり、頭部の血が不足して腹部に血がよどむようだ。したがって顔色が青白かったり、黒く黄ばんでいたりする。時たま結核患者のように頬がピンクであったりもするが、まずたいていは目の結膜も赤色が薄くて脳の血量が乏しいことを示している。
 これと反対に、結膜の血色もよく脳の充血を示していたりする者もいたりするが、これは《散る気》の反対である《凝る気》のはたらきが現れたものである。前にも述べたように、散る気と凝る気は裏表の関係で、散る気の強い人は凝る気のはたらきをもっているから、こちら側の形で現れたものである。

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