2009年7月2日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-2-3

【歩くときは気合いを入れて歩け】編述者■渡部昇一
 元来心は気を率い、気は血を率い、血は身体を率いるものである。たとえば、今自分は脚力が弱いから健脚になりたいと望めば、心は脚に向かう。脚と自分が一気で相連なっていなければだめだが、普通の健康状態の場合ならば、心が脚を動かそうとすると同時に、気が心に率いられて動く。そこで脚は自然と動く。これはいうまでもなく、脚と自分とが一気流通しているからである。
 ところが、健脚法の練習ということになれば、ただぶらぶら歩くだけではいけない。一歩一歩に心を入れるのである。すると心に従って気がそこへ注ぎ込んでくる。そうなると血が気にともなって脚部の筋肉に充満してくる。そこで血管の末端部が膨張して神経の末端を圧迫するから、内腿やふくらはぎ、くるぶし辺りが痛くなってくる。指で押すと疼痛を感じるが、これは遠足した人が経験する脚の痛みと同じである。この痛さにめげず、健脚がほしいという強い心で気を率い、毎日毎日訓練を積むと、毎日毎日血のはたらきのため脚は痛むが、それを続けているうちに痛みはしだいに減ってきて、最後にはまったく痛みは消えてしまう。これは血が身体を率いてしまって、いつのまにか常人を超えた健脚になったのである。すなわち、血が局部に余分に供給され続けたことによって筋肉組織が緊密になり、俗にいうところの筋(スジ)が鍛え上げられたのである。
 さらに今度は四キロから八キロ、十キロの重量を身につけて、同じように一心一気を用いて歩行訓練をするのだ。するとまた足が痛む。痛むのは同じく血のせいだが、やがて痛みは消えて脚力はさらに飛躍する。増量しながらこれを繰り返していけば、血が身を率いた結果、常人と信じられないぐらいの隔差が生まれるのである。
 力士が常人の卓絶した体力を得るのは、けっして先天的な要素ばかりではない。よく心をもって気を率い、気をもって血を率い、血をもって体を率いた男がはじめて大力士になれるのである。もちろん天賦の素質は否定しない。しかし後天的な努力、すなわち修行というものによって将来どのぐらい大躍進するものか、想像することは困難だ。

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