2009年7月3日金曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-2-4

【文と武の努力の天才たち】編述者■渡部昇一
 清の閻百詩は一代の大学者である。しかし幼時は愚鈍で、おまけにどもりでもあった。書物の一字一字に意味をつけて何百回読ませても理解できなかった。母親はこの哀れむべき子の読書の声を聞くたびに胸を痛めて、もうやめてくれと頼んだという。それでも百詩は勉学をやめず寝る間を惜しんで一心不乱に努力し続けた。
 そして十五歳になったある寒い夜、いつものように本を読んでもよくわからない。筆も硯も凍るようなところで凝然として身動き一つせず沈思していると、門が開くように垣根が取り払われるように、忽然として心が開かれ、そのあとは異常な英才ぶりを示すようになったという。そして自分の書斎の柱に「一物を知らざれば、もって深き恥となす。人に遭うて問う、寧き日有る少なし」と、書いて勇猛精進したのである。
 学問に対する勇猛果敢な姿に感動すると同時に、その少年時代の刻苦勉励を思いやると涙が出てくる。
 健脚報で脚を鍛えるのも、相撲で身体と技を磨くのも、勉学で明晰なる頭脳を育てるのも、すべて心が気を率い、気が血を率いれば、血はついに身体を率いるから、脚も四肢も頭脳も優れた変化を見せるようになるのである。どのぐらいの変化を遂げるか、小さな人間の知恵では測り知ることはできない。神のみが之を知っているのだ。
 名提督ネルソンは、体格検査でイギリス海軍兵学校を落第しているではないか。例外のことは例にならないとしても、これらのことを思うと、無形と有形との関係に霊妙なつながりが感じられてしかたがない。この結びつきをなんとか解明したいものである。
 《気》と《血》の関連について、もう少し観察してみよう。
 気が散る習癖のついている人の血の運行は、おのずからその習癖に相応した運行の傾向をもっているだろうし、また血の運行のある傾向は、気が散る習癖を生み出している。気が凝れば脳は充血し、気が散れば脳が貧血する傾向がある。またもし気が凝って鬱血すれば、鬱血したため気がはなはだしく散るが、その散り方は散るというよりは乱れるといったほうがよい。煩悶衝動、野生の猿が檻に閉じ込められたような状態を示す。
 ふつうは、気の散る人はまず血の下降性習慣があるから、脳が貧血状態になりがちだ。ところで気の性質として、その反対の習性を引き寄せることは前述のとおりであるから、気が散る習癖をもつ人は、ある時は脳充血して逆上したり、ある時は軽い脳の貧血を起こして頭痛を感じたり妄想を抱いたりする。貧血したり充血したり、その交替推移するさまは借金を背負った浪費家のようなもので、ある時はボロをまとって食うや食わず、またある時は金衣玉食といった変転きわまりないありさまとなる

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