2009年7月5日日曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-2-5

【気を上げる良習を身につける】編述者■渡部昇一
 純気が壊れていない健康な子供の場合、昼間は適度に血が上昇している。つまり脳のほうへ少し余計に血が上っている。日が暮れてから血が少し下降して、脳がごくわずか貧血する。夜間すやすや熟睡している健康な子供の額に手を当ててみるとよい。必ず清涼である。そして身体は温かである。昼間元気に遊んでいる子供の額に触ってみると、夜間とはいささか違っていることがわかるだろう。
 昼は《地気》が上昇し、夜は《天気》が下降するように、健全純気な子供は、昼は気が上がり夜は気が下がる。つまり昼は陽動し、夜は陰静して、そして平穏に霊妙に、脳力も発達し体力も生育するのである。
 子供でなくても、教えを受け道を学び、《駁気》にならない人は、年をとっても子供と同じように昼間は少し血が上がり、夜はまた少し下へ戻ってくる。こうして健康状態をととのえ日夜発達することができるのである。
 しかし、幼かったら成長し、成長すれば老いていき、老いれば死を待つばかりで、これが天命というものだ。だれでも成長するだけ成長してしまえば、《純気》はしだいしだいに《駁気》に変わっていく。駁気になってしまえば、気が散った気が凝ったり、あるいはその他いろいろな悪習がついてくる。
 気の上がりすぎる習癖がつけば、聡明さが多少増すかもしれないが、頭でっかちになって激しやすく感じやすくなる。あるいは功名心が強くなったり、恋慕の情が高じて夜も眠れなくなったりする。また、気が下がる習癖がつけば、心がちらちらとして定まらず、物事にとりとめがなくなり、昼に眠ったりするようになる。気が散ったり凝ったりしながら、しだいしだいに気全体が衰退していくのである。
 人間が成長するのも衰死するのも、その人自身の意思でできることではなく、すべて自然の摂理である。年をとって純気が失せて駁気は生じ、気が散ったり凝ったりするのも本人のせいではなく、自然の支配下での当然の成り行きというべきかもしれない。

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