2009年7月6日月曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-2-6

【酔生夢死の生き方を拒否する】編述者■渡部昇一
 ここに「順人逆仙」という道家の言葉が霊光を放つのである。普通の人間は自然に従い、超越した人間は自然に逆らうという意味である。凡人は造物主の意のままに操られ、ポイと捨てられたら死んでいくしかない。これでは獣や虫けらと同じではないか。 
 素直に自然に従えば、人間は野猿と同じになってしまう。
 「逆なれば仙なり」という言葉の意味は、人間はただ造物主の意のままに操られるだけでなく、その意に逆らうことも許されているということだ。つまり人間が他の動物と違うところは、造物主の意思に参加できる権利をもっていることだ。他の動物たちが自然の意志にしたがって太古のままの姿で生きてきたのに対し、人間は淫欲・食欲その他の欲望をコントロールして獣たちと同じ部分を超越し、異なった部分を拡張して大きく距離を隔ててきた。
 これこそ人類が血をもって描いてきた数千年の歴史である。キリストはこのために死に、釈迦はこのために苦しみ、孔子はこのためにやせ、老子はこのために饒舌をあえてしたのだといえる。
 人間はただ単に生まれて、そして死んでいくことを肯定してはいない。意識的にも無意識的にも、他のすべての動物を超越し、前代文明を超越し、かつまた自己をも超越してゆくことを欲している。そしてその希望は、少しずつ実現していきつつある。これはつまり、大なる造物主がその大なる意志の中へ人間が参加することを許しているからである。つまり人間は小なる造物主になりえるのだ。 
 造物主は、いわば立法者である。宇宙はその法律によって支配されている。動物たちはただ意味もわからず、その法に従って画一的に生まれてきては死んでゆく。人類でも、ある者は、いや多くの凡愚な者は同様に酔生夢死している。
 しかしわれわれ人類は、造物主の法律がいかなるものか理解はしても盲従せず、それを賢く運用して造物主の分身である地位を確保しなければならないのである。
 造物主が人間にも与えている獣たちと同じ《低級約束(姿形・機能・欲望など)》からある程度自由になり、不要なものは辞退しよう。そして人間にだけ与えられた《高級権利(造物主の分身としての権利・力)》を駆使したい。これが「逆なれば仙なり」の意味である。
 昔の賢人鉄人は、すでにしてこの実践を示してくれている。獣たちと同レベルの低級な色欲や食欲、あるいは無意味な娯楽、怒りや争い、煩悩愛憎、あげく自分の命まで捨てることをためらっていない。
 気を練り精神を統一することによって、この造物主の与えてくれた《高級権利》を、しっかりとわがものとしようではないか。この修養こそ錬気全神(気を練り精神をよく保つ)ということなのである。

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