2009年7月8日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-3-1

【こんな気の浪費が自分をカラッポにする】編述者■渡部昇一
 気が散る悪癖は、どうしたら直すことができるだろうか。
 ちょっとした負傷でも、治るまでに二、三日はかかる。全治十日間の怪我だといっても治るまで二十日や三十日かかるのがふつうである。
 昨日今日ついた気が散る悪癖ならば、すぐにでも直すことはできるのだが、とかくこういった習癖は放っておきやすいものだ。そして気がついたときには、すでにかなりの歳月を過ごしているはずだから、一朝一夕で改善できるわけがない。直すには放っていたぐらいの歳月が必要だ。それでも、若い人ならば容易に直すこともできるが、四十歳を超すとむずかしくなる。本人のよほどの発奮がないと見込みが薄い。
 植物にしたってそうだ。若い樹木はひどい傷を受けても、すぐ立ち直る。しかし老木は少しぐらいの傷でも、ややもするとすぐに枯れたがる。
 動物でも植物でも、若いものは《生気》が旺盛である。それに反して老いてくると《生気》が衰え、いわゆる《余気》となって、《死気》がすでに萌している。
 動物は植物と違って、自分の気を自分で調節し使用できるものだから、その能力を濫用して、常に気を泄らすことを喜び楽しみ、それを無計画にやるものだから《生気》を早く枯渇させてしまうことが多い。
 「欲界の諸天は気を泄らして楽しみとなす」と仏書にあるが、天部(諸天の神々)に遠く及ばない人間や獣が、気と血を一緒に泄らして楽しんでいるのだから愚かというほかない。生命はまだ残っているといっても、気はすでに尽きかけていることが多い。
 こういう人を救済するのは難儀である。なぜならば、散る気を改めさせようとしたところで、すでにその気が尽きかけているのだから、財産を使い果たした人に浪費をやめなさいというようなものである。
 歳が若くても、あまりあてにならない。三十歳にもならないのに《生気》の乏しい者がたくさんいる。生まれついての体質にもよろうが、気を浪費するのが忙しくて補給が間に合わないからである。それでも、若い人は立ち直りやすいからよいが、中年以上になると悪習はたしかに直りにくい。それでも、けっして失望してはならない。失望は非常に《気》を傷つけるものだからである。
 直すのは《散る気》ばかりではない。すべて《気》に関する悪習ーーー《偏る気》《緩む気》《逸る気》《萎む気》ーーーなどは、老若に関係なく、まず《気》の過剰な排泄を止めることだ。過剰な排泄は《種子なし》になってしまうから厳に慎まなければならない。気の排泄を極端に抑えると怒りっぽくなる傾向があるが、これはやむを得まい。
 人間は二十歳ぐらいまでは日に日に成長発達する。これは《生気》のしからしむところである。こうして発達し続けて成熟すると、生気はしだいに体内に蓄積貯蔵されていき、ついには外へあふれ出るようになる。生気は自然につくられ、溜められ、あふれ出ていくものである。
 天地の生気は、このように休むことなく循環し続けている。その循環の中の一つをとっていえば、自分の一身は天地の生気の一つなのであるから、せっかく充満してくる生気を無駄に洩らすことは、自分という容器を無用の物にしてしまうことだ。そして、たくさん泄らすということははやく空っぽにすることであり、この容器をいっそう早く無用のものにしてしまう結果となる。
 もちろん、人間には個人差というものがある。大きな容器をもって生まれ、《生気》をたくさん保持できる人がいる一方、生まれつき容器が小さくて、《生気》をたくさん保有できない人もいる。これは天分というものであるから、やむを得ない。しかし、問題は生気を消耗する機会と量である。無駄づかいをすれば早死にするし、細く長く使えば長生きもできる。量の多少にかかわらず、生気の無駄づかいだけは慎みたい。
 ところでこの無駄づかいに気づいた場合、一気に改めようとは思わず、徐々にやっていくことが肝心なのである。急激に直そうとすると、気が鬱屈回転するため焦燥混乱を来して、爆発的な状態に陥ったりすることがある。そして怒りやすく狂いやすく異常な言動を始めるようになる。けっして功を焦ってはならない。
 世間では、勝手気ままな青年や好色な壮年が、ある日突然、生活態度を改め身持ちをよくしたりすることがままある。ところが、たいていの場合、彼らはたちまち精神に異常をきたしてしまう。はなはだしい場合には急死したりすることさえあるのである。急いては事を仕損じるから、くれぐれも気をつけてもらいたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

連山・ブログ衆・(未)