2009年7月9日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-3-2

【たった一つの悪習で人生のボタンはかけ違いになる】編述者■渡部昇一
 さて、その気が散る悪癖は、どんなことから身についてしまうのか、その根源を考えてみよう。 
 自然の法則からいえば、人間がしだいに成長発達して大人になり、《純気》から《駁気》に移行するポイントで生じるように思われる。《駁気》が生じてくれば、当人の心理状態からいうと、気が散って当然の問題を抱えているにもかかわらず、無理に目の前の別の物事に取り組むようなことをやるから、気が散る習癖がついてしまうのである。つまりは、気が散るべきことをわざわざ重ねてやり続けるから、この悪習が身についてしまうのは当然のことだ。そしてそれが積もり積もってその癖が定着してしまうのである。
 身近かな例をあげてみよう。
 碁の好きな商人が対局しているとき、商用の電報が届いたとしよう。電報である以上急用であるにちがいない。しかし、碁を打ちかけているから、開封もせず左手でつかんだまま二手三手と石を置く。相手の番のとき、やはり気になるから開封してちょっと読む。折り返し返事の電報を打たねばと思いながらも、また次の一手を考える。もう少しで決着がつくだろうから、返報はこの一局が終わってからにしよう、と頭の中で堂々めぐりをしている。
 商人だから商用電報の重要性は十分に心得ている。さりとて碁の局面の微妙な形成も目が離せない。一方で商売、一方で碁の勝敗。人間は同時に二つのことを考えることはできない。そうなると、ある瞬間は商売、次の瞬間は碁と、《気》は刹那刹那にあっちにいったり、こっちに来たりして落ち着くことができない。
 こうなると、どういうことになるというか。当然のことながら見積もり違いで商売はしくじるし、つまらない見落としで碁にも負けてしまう。ここで慎重に考察しなくてはならないことは、散る気の起こる前後の状態である。前に述べたように、気が散って当然の理由があるにもかかわらず、無理して目の前の物事に従うから、文字どおり気が散ってしまうのだ。電報を受け取ったら、ただちにこれを開封して次なる処置をとらなければならない。それをしないで碁を打っていれば、当然のことながら気は電報にひかれてしまう。ここに、どうしても気が散ってしまう根源が芽生えてしまうのである。 
 これに気づきながらも、碁にこだわって打ち続けるようなことが二度、三度と繰り返されると、散る気は悪習としてがっちりと居座ってしまう。こうして碁に専念できるときでも商売のことを思い出したり、商売に励んでいる最中に、ふと碁の局面を思い描いたりするようになってしまうのだ。こういう経験が積もり積もると「散る気」の癖がついて、AのことをやりながらBCのことを思い、Dのことに当たりながらEFGのことへと気は転々として移り、支離滅裂になってしまう。

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