2009年7月10日金曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-3-3

【露伴流「散る気」の退治法】編述者■渡部昇一
 さて、このような《散る気》を、どうやったら治療できるか。その対策を考えてみたい。もともと《散る気》というものは、「なすべきことをなさず、思うべきことを思わず、なすべからざることをなし、思うべからざることを思う」ことから生じるのである。これさえわかれば、治療法は簡単。まず心をよく治め意志を強固にして「思うべきことを思い、なすべきことをなそうと決心し、それをすぐ実行に移す」ことが第一着手である。
 前にあげた例で言うと、碁の対局中に商用電報が入ったら、まずその電報についての処置をすることが、すなわち「なすべきこと」である。電報が入ったのに碁を打ち続けるのが、「なすべからざることをなしている」のである。電報を受け取ったら碁板からただちに離れて電文を読み、返事するなり何なりしかるべき処置をしてから碁盤の前に戻り、あらためて全神経を集中して碁を打つがよい。昔、俳諧連歌を催している商人に急用が生じた。そのとき、宗匠は「商売の御用すませられてから蓮歌をなさるのがよろしい」と言ったという。さすがである。
 どんな些細なことからでもよい。第一着手は「なすべきをなし、なすべからざるをなさず。思うべきを思い、思うべからざるを思わず」決意決行することである。
 食事をしながら新聞を読んだりすることは、だれしもよくやることだが、これはやめてほしい。食事は心静かに、飯は硬いか軟らかいか、味は濃いかうすいか、あるいは煮魚は何の魚か、鮮度は新しいか古いか、食事に全精神を込めなければいけない。 
 明智光秀にこんなエピソードがある。
 粽(ちまき)が出されたとき、彼は何に気をとられていたのか包んである芽(ちがや)もむかずに食べたという。たとえ三日にせよ、天下をとったはどの人物が皮もむかずに粽を食べるという愚行を見せたのは、まさに気が散っていたからに他ならない。
 また光秀は連歌の席で、隣に人に本能寺の溝の深さを質問したという。これはまた連歌の席で連歌に集中できず、心が千々に乱れていたのである。光秀は信長から忍びがたい辱めを受けていて、健全な心理状態でなかったことは理解できる。この深い心の傷のために食事の席でも歌の席でも集中することができなかったのだろう。彼には気が散らなければならない深刻な理由があったのである。

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