2009年7月15日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-3-4

【孔子と秀吉の全気全念ぶり】編述者■渡部昇一
 散る気の習癖を取り除く方法を、さらに進めてみよう。
 簡潔にいえば、やるべきことがあったら、やってしまうのである。思うべきことがあったら、思ってしまうのである。やるべきことでも思うべきことでもなかったら、そんなことはいっさい投げ捨てることである。そして、鏡の表面の汚れやほこりをきれいにぬぐい去ったような気持ちで、やろうということ、思おうとしていることに立ち向かうことである。そうすれば、きれいな鏡には鮮やかな像が映るように、取り組む対象がくっきりと見えてくる。対象がはっきりしていれば、気は取り乱れず、全気を集中させて物事の処理ができる。
 こういう習慣が身につけば、何事によらずテキパキと片づけるようになる。朝起きる、雨戸を繰り開ける、電灯を消す、布団をたたむ、服を着替える、部屋の掃除をする、洗面所に行く、朝飯を食べる・・・・・、けっこう面倒だが、慣れればだれにでも簡単にできることである。しかし、集中してハキハキ片づけられない人は、何歳になっても布団は丸く積み、掃除は埃を立てるだけ、トイレではいつまでも考え事をして時間をつぶしてしまう。これ、はできないのではなく全気全念で集中してやらないから、うまくできないのだ。
 悪を憎んで天下の大掃除をした陳蕃(後漢の政治家)とまではいわないが、気を集中さえすれば、どんな凡愚な人でも箒の使い方ぐらいは上達できるはずである。
 豊臣秀吉が信長の草履取りをしていたとき、どういう働きぶりをしていたか。よく知られている通り、どんなにつまらない仕事でも全気全念を集中して、手を抜かずにやり遂げたからこそ大抜擢されたのだ。われわれ凡人は、たとえば箒の使い方など、取るに足りないことは「いい加減にやっつけろ」ということになりがちだ。ところが、取るに足らないと思われることさえできなくなって、どうして大きな仕事ができようか。これも積もり積もって何のみのりもない一生が終わってしまうのである。
 小さいことを軽く見てはならない。小さなことだと思って軽んじるのは自分の心を尊ばないということと同じだ。つまらないものは歪み曲がってうつってもかまわないというのは、鏡に対してもつべき正しい考え方ではない。つまらないものでも、きれいな鏡ならば善く映るのである。
 呉の大臣が孔子のことを「先生は聖者でしょうか、なんとまあ多才な方でしょう」と、孔子の多方面にわたる才能を褒めたのか、あるいはひそかに皮肉にしたのか、質問した。孔子は「私は若い時は身分が低かったから、何でもやったので、つまらぬことにも上手にできるのです。本来、君子はそんなことに多能である必要はないのです」と謙遜して答えたという。しかし事実は、つまらないことであれ何事にも全気全念全力をもって取り組んだから、多方面にわたって能力があったのである。
 つまらないことなどはどうでもよいと、凡愚どもはつまらないこともできないくせに威張っているが、聖人は、つまらない事までよくできて、謙遜しているのだ。聖人が気を集中して、つまらぬことに取り組んでいるのにわれわれの分際で集中もせずにつまらぬものに立ち向かって何ができようか。
 そのつまらぬことに対して、全気全念をもって立ち向かう健全純善なきの習慣は、やがて確たる偉業を打ち立てることにつながるのである。儒教でいう《敬》というのが、すなわち全気全念で事に従うことであり、そして道教でいうところの《錬気(呼吸をととのえ心気を練る)》の第一歩が全気全念を保持することなのである。
 この造作もない日常のつまらぬことが、ちゃんとできるまでには多少の修業が必要だ。しかし一度身につけたら、水泳と同じことで水に入れば自然に体が浮かぶように、容易にできるようになるのだ。机の前に座るだけが修行ではない。日常二六時中、何事をなすにも気を集中させるのだ。暗闇の中で脱いだ下駄は暗闇の中でも履くことができる。しかし全気を入れて脱がなかった下駄は明かりをつけても、すぐにうまくは履けないものだ。 
 何事においても、全気で取り組んだとき、どんな具合に進行展開して、そしてどのような結果になったか見届けることだ。そうすることによって、刹那刹那、秒秒、分分、時々刻々に当面することと、全気で対応することができるようになる。こうなるとしめたもの、いつの間にか《散る気》の習癖は消え失せてしまっているであろう。
 聖徳太子が一度に数人の訴訟を聞いたというエピソードがあるが、これは例外中の例外であるから、決して真似をしてはならない。聡明な人はややもすると、他のことをやりながら客と対応したりするが、これは気の散る習癖が身につく前にやめることだ。

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