2009年7月16日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-3-5

【人、二気あれば、すなわち病むの大真実】編述者■渡部昇一
 やらなければならぬこと、思わねばならぬことがあったら、ただちにそれに取りかかろう。これが《気》を率直にする方法であり、こうすれば《気》は順当に流れて分散する心配はなくなる。やってはならないこと、思ってはならないことがあったら、ただちにこれを投げ捨てよう。これは気を確固たるものにする方法であり、こうすることによって気は確かなものとなり、散り乱れることはなくなる。この投げ捨てるというのは、けっこう難しい作業だから、まずはやるべきことのほうに取りかかって、気を素直にしよう。
 また、やるべきことが二つも三つもある場合は、最も早く片付くこと、最も早く終えるべきことから順番に仕上げていこう。そして、その一つひとつと全気をもって取り組み、その仕事の最中に死んでもよいのだと、ゆっくり構えてやり遂げることだ。仕事半ばで寿命が尽きたら、それもけっこうではないか。全気で死ねば、すなわち《尸解の仙》(仙術で死人のような肉体を残して魂だけが体外に抜け出す術)だ。しかし、全気で生きている人には病気などなかなか寄りつかないものである。
 「人、二気あれば、すなわち病む」という名言がある。気が一つだけというのが正常な状態であり病気にならないが、気が二つになると病気になってしまうというのだ。人間はもともと同時に二つ以上のことを考えることはできないし、また同時に二つ以上の行動ができるようにつくられていない。それを無理やりやろうとするものだから、気は散り心はよじれて精神の異常を来したり、病気を招き寄せる結果となってしまうのである。禅僧でも修行の功を積んだ人は、あまり風邪などひかないのである。
 このことは、くれぐれも心に刻んで忘れないでおこう。
 気が散る習癖を取り除く第二の方法は、《趣味》の世界に没入することだ。
 およそ人間には、すべてそれぞれ《因》《縁》《性》《相》《体》《力》の六つがそなわっている。これらがそれぞれ作用するわけだから、先天的な約束事を背負っていると思ってよい。あまり運命的な決めつけをしてはいけないが、もって生まれた「好き嫌い」に従っていくやり方も悪くない。絵を描くのが好きな人は親が反対しても好きだし、人の身体を触るのが嫌いな人は、親兄弟が医者であっても医者にならない。僧侶が好き、軍人は嫌いと、まさに人それぞれである。幼すぎて物事の判断ができない場合とか、一時の思いつきを除いて、《趣味》をもっと大事に考えてみたい。
 絵の好きな人には、絵を好む遺伝子があり、さらには幼時に絵に魅かれる劇的な出来事があったりする。他の仕事には向かないのに、物や風景を巧みにスケッチできるということは、すでにして絵描きになるべき体質や筋肉組織をそなえているのだ。手には均整のとれた線を書く力があり、目には微妙な色彩を識別する視力があり、対象の急所を抑える天分を会得しているのである。
 こういう人を他の世界に引っ張っていても無駄なことだ。気は散り乱れて、いかに修業したってモノになるわけがない。むしろ好きな画技に専念させて絵描きにさせたらよい。嫌なこと不快なことを捨て、好きなことに没入すれば、《気》は順当に流れ力を増してくる。
 義理の上からは、どっちを取ってもよいならば、趣味に従うのがよい。趣味は、気を養い生気を与え、そして順当に発動させる力をもっている。

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