2009年7月17日金曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第四章-3-6

【ナスに清冽な水、ワサビに硫黄の生き方をしていないか】編述者■渡部昇一
 植物に例をとってみよう。硫黄の気を好むナスに硫黄を少し与え、清冽な水を好むワサビに清冽な水を与えると、それぞれその本生を遂げて独特の持ち味を生み出すのである。つまり、ナスの美味の気は硫黄から、ワサビの辛味の気は清水からもらっている。人間が趣味に素直に従うことは、気の上からいって非常に大事なことなのである。もし、好むところに逆らってナスに清冽な水、ワサビに硫黄を与えると、両方とも気が委縮して本来の味を生み出せずに終わってしまう。
 本来、趣味というものは、本人が先天的に備えている因子などから生じてきたものだから、これに素直に従ったほうがよい。芸術家もよし、僧侶もよし、山野を放浪するもよし、みなそれぞれが異なった因子に従って、自分の目指す方向に向かって歩いたらよい。
 ただし、趣味とは言い難いが、気を消耗させ気を乱す賭博や色事だけは好きだからといって放っておいてはいけないので、慎まなくてはならない。
 気の散る悪習を取り除く第三の方法は、血行を整理することだ。しかし、これは、説明がむずかしく誤解を招いて悪い結果が出やすいので、詳しくは述べない。ただ呼吸機能を完全にはたらかせるようにすること、歌を歌ったりして朗詠したりして血行を促進させること、酒類も役立つがコントロールがむつかしいからなるべく使わないこと、ぐらいにとどめておこう。
 最後の締めくくりーーー。要は《血》をもって《気》を率いてはならない、《気》をもって《血》を率いよ。《気》をもって《心》を率いてはならない、心をもって《気》を率いよ。《心》をもって《精神》を率いてはならない、《精神》をもって《心》を率いよ。
 血をととのえて気を助け、気を練って心を助け、心を澄まして精神を助けよ。
 血は、すなわち気であり、気は、すなわち心である。心は、すなわち精神であり、これらはすべて切り離すことはできない。
 気の悪習の中で、とくに気が散る癖は、「《目の前の刹那》について、その原因を取り除け」て、退治してしまおう。どんな小さなつまらないことにでも全気全念でぶつかってみることである。そうすれば自分の《気》の状態がわかるようになるであろう。このようなことに努力すれば、二、三週間のうちに、どういう風にやるべきかのコツがわかってくるであろう。

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