2009年6月26日金曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第三章-4

【自己実現に不可欠な身体の自己鍛錬法】編述者■渡部昇一
 自分で病気を招いた者は、その経緯を深く反省して二度と過ちを繰り返さないようにしなければならない。自分が愚かだけだっただけではすまず、両親に対しては不孝の極みであるし、妻子や目下に対しては苦労と悲しみを与える。それだけではない。これは社会に対しても迷惑をかけ借りをつくったも同然で、極論すれば一種の犯罪ともいえる。
 自分で病気を招かなかった者には、もとより罪はない。しかし病気になってしまえば自分ばかりでなくまわりの人を不幸に巻き込んでしまう。親は悲しみ妻子は憂い、社会にも借りをつくったような立場に立たされる。世の中には、こういった人たちも少なからずいて、宿命論のようなものが信じられるのも無理からぬところである。
 先天的に悲しむべき体質を受け継いだ弱者には、手を差し伸べてやらないと、ある者は自暴自棄になって危険な思想や行動にはしるかもしれない。またある者は萎縮・怠惰・絶望で生きていく気持ちも失せていく。
 そして先天的弱者に限らず、自ら招くと招かざるにかかわらず、病人はとかく弱気になるものだ。病気は不幸であり、将来の幸運のさまたげともなり、多くの不幸をつぎからつぎへと招きやすいものである。とくに青年期における疾病は、はなはだしい挫折・苦悩・悲哀感をもたらすものだ。まして大志を抱いている者、功名心の強い者、聡明な者が病を得ると、その苦悩はいっそう深刻だ。病は身体を苦しめるだけでなく、心まで苦しめるから、青年は二重の苦しみの底で喘ぐのである。
 こういう病人に「君よ、心を苦しむなかれ」と、おざなりの声をかけたって無駄なことだ。
 病弱の人には、心からなる同情が必要である。同情は薬や手術のように直接的な効果はないかもしれないが、手足を挫いた人に施すギプスのようなはたらきがあるものだ。ただなごやかな気持ちで包み込んであげるだけでよい。はたからとやかく干渉したり、意見がましいことはいったりしないことだ。
 病人自身は、さまざまな思いにさいなまされて、意気消沈したり悲観的になったり迷いに満ちているものである。しかし、あまり自意識をはたらかせて苦悩するより、広々とした心で伸びやかな思考に努め、天もしくは運命、あるいは神仏のようなものを信じて素直な気持ちになるのがよいのである。

 人間に病気はつきものである以上、たまに病気にかかったといってジタバタしないことだ。生命あるかぎり、病気とはいつか遭遇するものだと予想していたほうがよい。そして、その予想に基づいて、第一に病気にかからないように努力し、第二に病気にかかったらどうするか、と対策を練っておくべきである。
 まず病気にかからないためには、第一に自分自身の健康管理に努め、ついで近親・友人、さらには社会にそれを広めていく。自分ひとりの力では、わが身さえ完全に保護することは困難である。夫婦・親兄弟・友人・社会が同じ目的で力を合わせれば、その達成により近づくことになろう。
 世の中を見回しても仲の良い夫婦は健康である例が多い。これはお互い親身になって相手の様子を観察しているから、相手の不調をいともたやすく発見できる。そして、すぐさま手をうつわけだから病気になりにくい。そして夫婦の一方が欠けると、残されたものが健康を損ないやすいという事も世間でよく見受けることである。愛情に包まれている幸せな人には、みんなの目が注がれているから病魔が侵入する隙が少ないのである。
 自分自身の健康が基本であることはもちろんだが、よい夫婦、ありがたい両親、やさしい子供の力が、病気から守ってるれていることも忘れてはいけない。長寿の人を見ると、孝行な子や孫に取り囲まれている場合が多い。反対に立派な体格に恵まれながら不健康な人を見ると、だいたい不良な妻や夫をもっている。一家の足並みが乱れると病気につけ込まれるから、お互いに仲良く愛情の目をもって見守り合うことが必要である。
 ここで大切なことは、素人は病気にかからないための健康管理が主眼であって、不幸にして病気にかかったと判断したら、すぐさま専門の医師にすべてあずけるべきである。絶対に小賢しい素人判断を下して余計なことをしないことだ。
 われわれが細心の注意を払わなければならないのは、素人でも気がつき手の打てる気候・温度・湿度・食べ物の変化や、身体に現れる微妙な異常などである。はたらきすぎて疲れていないか、睡眠不足ではないか、食べ過ぎ飲みすぎをしていないか、入浴後に薄着はしていないか、皮膚を不潔にしていないか・・・・・・・などなど、チェックできるものは数限りなくある。

 平常に健康状態を保つことが、すなわち病気から身を守ることであるが、これをさらに一歩進めた積極的な考え方もある。「守れば足らず、攻むれば余りある」という諺がある。消極的に病気をすまいと気をつけるのではなく、積極的に普通以上の健康体になってやるぞ、と努力することがたいへん有効なのである。身体のポッシビリティ(能力)を普通人よりはるかに優れたものにしようと、意欲に燃えて生活することは、きわめて効果的なやり方といえる。
 普通でよいと願っていたのでは、時として普通になることすらできない場合もある。普通以上になりたいと願って、やっと普通レベルにたどりついたりするものだ。常に一歩先、一段上を目指すことによって、ようやく普通になれるものだと考えたほうがよい。
 普通の人が毎朝一回歯を磨くのならば、こちらは毎食後磨こうではないか。こうすれば普通の人より歯医者に通う回数は確実に少なくなる。
 胃の弱い人は、タカヂアスターゼを飲み、苦味チンキを飲み、ペプシンを飲み、お粥を煮て食ったりフランスパンをかじる。つまり薬剤に頼り軟弱な食べ物だけにすがる場合が少なくない。物を尊んで心を尊ばず、外国を重んじて日本を軽視する。なぜ噛む時間を長くしてていねいに咀嚼しようとしないのか。意識を転換して、弱い胃を普通の胃に、そして普通の胃を強健な胃に鍛え上げようとしないのか。
 アドバイスをひとつ贈ろう。
「おまえの鍋で粥を煮るより、おまえの口の中で粥をつくれ」
「薬局から消化剤ジアスターゼを買うより、おまえの体内からジアスターゼを得よ」
 逃げ腰になって城が守れるわけがない。造物主が、われわれに与えてくれた知恵を、今一度思い起こしてみようではないか。大自然の意思を理解し、それに自然体で順応すれば健康は保持できるのである。
 もう一つ飲食について、先人の懸命なアドバイスに耳を傾けてみよう。
「飲食する前に目を閉じてはいけない。目は食べてはいけないものを見たら、それを食べるなと教えてくれる」
「飲食する前に鼻をふさいでないけない。鼻は食べてはいけないものを嗅いだら、それを食べるなと教えてくれる」
「飲食する前に舌をだましてはいけない。舌は食べてはいけないものに出逢ったら、これを食べるなと教えてくれる」
「飲食には歯を使わなければならない。歯は物をかみ砕き、物の分子のあいだに唾液を混ぜて浸し、嚥下と消化とを容易にする」
「口腔を無意味なものにしてはいけない。口腔は物をここにとじこめて、胃腸における消化吸収作用の準備をさせる」
「知識をなおざりにしてはいけない。知識は飲食について、他の諸器官にできない最高有益な判断を下す」

 胃腸は人間の意のままに動いてはくれないが、分泌は感情に大きく左右される。だから、胃にとって具合の悪い感情を抱いて胃を苦しめてはならない。胃を苦しめなければ、胃液を十二分に分泌して、円滑に消毒と消化をしてくれる。
 胃病の人が、食べ物に対して恐怖・嫌悪感を抱くとき、胃液は分泌をやめてますます消化不良を起こすことは、よく知られていることだ。
 造物主が人間に与えてくれたすべての物を、過不足なく自然に使いこなせば病気につけ込まれる心配は少ない。
 筋肉は大いに使おう。筋肉の運動をなおざりにすれば、筋肉は日に日に衰えて薄弱となる。呼吸器も酷使せずに適当にはたらかせてやらなければ不調に陥る。このように体内の諸器官を満遍なく無理せず使いこなせば健康は保証されるのである。
 病気というものは、まことにいやなものである。しかし考え方によっては、病気が人間にもたらすプラスがまったくないわけではない。古人は「病気のある者は、かえって志を遂げられる」ともいっている。
 また、この世に病気というものがなかったら、人間は哲学や思想を生み出せなかったかもしれない、という言い方だってできるのだ。皮肉なことだが、病気が人間をどれほど啓発してくれたかわからない。このような見方を転換すれば、自分が招いたのでない病気もまんざら捨てたものでもないかもしれない。
 しかし、たとえ肺病や神経の病気が人類の文明に少なからざる貢献をしたとしても、病気には必ず苦しみがともなうものだから、これは病人に対して言うべき言葉ではないだろう。
 願わくは、すべての人が無病息災で長寿幸福であらんことを、と祈らねばならぬ。

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