2009年6月24日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第三章-3

【身体の悲鳴にはこうして応えよ】編述者■渡部昇一
 生き物に病気はつきものである。植物や下等動物はさておいて、人類ならば男女を問わず病気とは無関係ではいられない。
 「病気とは何ぞや」と定義するのは、なかなか面倒なことである。どこまでが健康な状態で、どこからが病気の状態であると規定することもむずかしい。ここでは専門家の領域の生理学・病理学・保健学・解剖学に立ち入って論じるよりは、一般人の常識レベルの考え方に立って考えたほうが実際的であり、正しい理解に近づけようというものだ。
 ふつう病気というのは、《器質の異常》や《機能の不全》が現れることで、いいかえると生理状態に欠陥が生じたり、異常を示しつつある状態を指す。
 いずれにせよ、病気ほど人間にとって不幸なことはない。自分の病気はもちろんのこと、家族・友人、あるいは一面識のない人たちの病気も、すべて直接的にしろ間接的にしろ不幸なことであり悲しむべきことである。愛児の病気、町内の伝染病患者はもとより、北極圏のエスキモー、アフリカの現地人の病気もまた人類の不幸である。小さな心の利己主義からいっても、やさしい心の博愛主義からいっても、この世から病気というものを絶滅したいと思わぬ人はいまい。
 人類の歴史は、病気の歴史であるともいえる。医学が進歩し衛生設備が完備してもなお、病気の絶滅は不可能のように見える。どうすれば人類は、病気をこの世から抹殺できるだろうか。これはできないことかもしれないが、人類の願いであることは確かである。どこから手をつけていくか。
 方法はひとつではない。やるべきこと、できることはたくさんある。
 大きく分けると、社会的な観点と個人的な観点とがある。しかし個人についてはしばらくおこう。個人が健康であっても社会生活の中においては、ひとり自分だけで健康を保持することが不可能であるからだ。ここではまず、社会として病気とどのようにして対決すべきか考えてみたい。
 社会的な取り組み方も多様であるが。最も簡単で効果的なのは、まず《病人の隔離》である。この方法は未開地の原住民でさえ古くから実行して成果をあげている。これよりも進んで《強制種痘》《検疫検便》《下水排水の完備》、さらには飲料水や空気の浄化、温度・湿度の調節、光線・気流の調節など、予防と発生した病気への対処など、手段は数限りなくある。
 病気への対策は大きく分けて二つある。直接病気と取り組むのはレベルの低い衛生法で、病気絶滅の効果は少ない。一方、水・空気・光線・環境などに関する研究や設備はハイレベルな衛生法であって、これらの進歩がなければ病気の根絶は困難である。
 病気は個人の問題に見えるが、そうではなくて社会の共有問題なのである。病気を根絶したいのならば、社会は社会的に個人は個人的にという考え方を捨てなければ不可能だ。社会は個人の病気を社会の問題としてとらえ、また個人も社会の病気を個人の病気として認識して対決しなければ、病気をいつまでたっても地球上から絶滅させることはできない。個人と社会が意識と感情において一体感をもつことこそが最も大切なことなのである。
 南京虫などのような害虫は物の隙間に巣くって生き延び、繁殖して害をなす。おなじように社会と個人のあいだに隙間が生じていたら、そこへ病害が巣くって広がり災いをもたらすのである。もちろん個人としての真剣な治療の努力をすることは当然のことだが、同時に社会とのピッタリとした連携を忘れないことだ。
 繰り返せば、まず第一に社会的に、第二に個人対社会と社会対個人、第三に個人的、この三つの視点から病気と取り組むならば、何年も後には大きな成果が約束されるのである。

 病気はだれだって好きではない。それなのに、なぜ病気にかかるのか。
 冷静に観察すると、病気がやってくるルートは二つある。一つは「招かないのにやってきた病気」、そして「招き寄せた病気」である。
 不行跡から得た性病、暴飲から来た心臓異常、粗暴な行動による骨折・捻挫などは、まさしく招き寄せた病気だ。一方、知らない内に結核菌が空気伝染したり、水や野菜から寄生虫の卵を取り込んだり、アノフェレス(はまだらか)からマラリアをうつされたりしたのは、招かないのにやってきた病気といえよう。
 見方を変えれば、だれしも自ら意識して病気を歓迎するわけではないから、すべての病気は招かないのにやってきたもの、といえなくもない。しかし、避けることができたにちがいない病気をタカをくくって背負いこんだり、不注意や意識の欠如から思わぬ大病をもらったりすることが世の中には意外に多いものだ。好んで招いたのではないといっても、やはりこれらは、自分で引き寄せた病気といってよかろう。
 水に長く浸かってリウマチになったり、寄生虫が多い土地の生野菜を食べたりするのも、病気を招く行為である。避けることができたのに、そうしなかったのは知識不足から、招くつもりでなく招いた病気といえよう。
  われわれが個人的に最も注意すべき点は、《不注意》と《知識不足》である。
 食べ物や着る物の不注意から病気を招くことも多い。子供や病弱な人、あるいは厳しい勤務を強いられている公務員を除いては、自分で病気を招いている人が大変多いように思われる。日ごろから自分でできる健康管理---運動・休息・睡眠・空気・光線・・・・・・などの知識を養い、心身への気配りを怠らず、少なくとも自らが病気を招かないようにしてほしいものである。
 正確にいえば、自ら病気を招いていないのは、先天的に虚弱な体質を遺伝的に受け継いだ人たちだけだといえる。この不運な人たちだけはだれしも非難することはできない。世界最強のスペイン無敵艦隊を破ったイギリスの名提督ネルソンは、虚弱体質のため海軍兵学校の身体検査で落とされたが、彼はこの先天的な欠陥を後天的な努力によって強靭なる心身に鍛え上げ、歴史に名を残している。これは虚弱者を励ますためしばしば引き合いに出される有名な話であるが、何百年に一度ぐらいのまれな事例だから万人に当てはめるべきではないであろう。

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