2009年6月2日火曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第一章-1

【自分の人生に大斧を振るう勇気を】編述者■渡部昇一
 運命というものがなければしかたがないが、もしほんとうに存在するとしたら、個人・国家・世界において運命の支配を受けるものと、それを支配するものとのあいだに何らかの約束事がなければならない。
 昔から英雄豪傑は「運命に支配されたくない、運命を支配するのだ」といったものだ。「天使は命を造る、命を言うべからず」という言葉がある。つまり天使は人間世界における大権の所有者で、造物主が絶対権をもっているように、運命を造るべきものであるというのだ。運命が自分に利さないと嘆いたりするような弱音を吐くことがあってはならない、という意味なのである。

 英雄豪傑たらんとする者は、「大丈夫命を造るべし、命を言うべからず」といって自ら大斧を振るい、巨大なノミを使って自分の運命を刻みだす力を振るうべきものである。運命が良いの悪いのといって泣き言を並べ、他人の同情を買おうとするのは愚劣な凡人のやることだ。

 易者などの説く「運命前提説」のとりこになって、幸運が自分には回ってこないと悲しんでいる者ほど不幸な人間はいない。生まれた年月日の十干十二支や九宮二十八宿、あるいは自分の人相骨格などによって、運命が前もって決められていると考えるのは愚の骨頂としかいいようがない。

 薄弱で貧困な意思・感情・思想こそが悪運を招き、幸運を追いやってしまうのである。

 二千年も昔の『荀子』(戦国時代・荀況)に「非相」の編があり、人相と運命は無関係であると説かれている。また『論衡』(後漢・王充)に「命虚」の論があって、生年月日と運命とは関連がないと説いたのが漢の時代なのである。ほんとうは、これらの説が間違いであって、人相と生年月日は運命に関連しているのだといってみても、あれほど因習に柔順なシナ人でも「運命の前定」などという思想に屈しない者が大昔からすでにいたということは、大いに頼もしい気がする。はるかな昔に運命論を否定しているのに、現代の人間が「運命前定論」に屈服するような情けない思想を抱いているのは嘆かわしいかぎりである。

 まことに荀子のいうとおり、顔は似ていても志は違うし、王充の説くように、同時に埋め殺された趙の捕虜何十万人が、みな同じ生年月日であったわけでもなかろう。まあ、それはそれとして、「運命前定論」など認めたくないのが人間の本然の感情であろう。

 あるいは、ほんとうに運命というものがあって、人間はそれに支配されているのかもしれない。しかし、仮にそうであったとしても、運命に支配されるより運命を支配したいと考えるのが、われわれの偽らざる欲望であり感情である。ならば、何を好きこのんで自らを卑下し自らを小さくすることがあろう。ただちに進んで自らの運命を切り拓いていくべきではないか。この運命を切り拓いていく気象を英雄的気象といい、この気象をもってついに事実に為し得る人間を英雄というのである。
 
 もし運命というものがないならば、人間の未来はすべて数学的に予測できる。三三が九、五五が二十五となるように、明白に今日の行為をもって明日の結果を予知することだってできるはずである。しかし人間関係は複雑で、世相は紛糾しているから、容易に同一行為が同一結果に到達するとはかぎらない。そこでまた、だれの頭にも運命というようなものがおぼろげに意識され、その運命なるものが大きな力をもってわれわれを支配するかのように思えるのである。

 ある人は運命の女神に愛されて発展を遂げ、ある者は反対に運命に虐待されているかに見える。一個人の場合でも、ある時は運命の《順潮》に乗って勢いよく走り、またある時は運命の《逆風》にさえぎられて帆をおろして停まってしまうこともある。こうして「運命」という言葉は容易ならぬ権威ある語として、我々の耳に響き、我々の胸に深く根を下ろしているのである。

 しかし、聡明な観察者になれなくても、注意深い観察者になって世の中を見渡すと、一つの大きな《急所》を発見することができる。それは、世の中の成功者はすべて自分の意思・知慮・勤勉・仁徳の力によって好結果を得たと信じており、一方失敗者はすべて自分に罪はなく、みな運命のしからしむるところで苦しい目に遭っていると嘆いていることだ。つまり、成功者は「自分の力」として運命を解釈し、失敗者は「運命の力」として自己を解釈しているのである。

 この相反する見方はどちらが正しく、どちらが間違っていると即断できないが、どちらも実感であるにちがいない。はっきりいえることは、成功者には自己の力が大きく見え、失敗者には運命の力が大きく見えるに相違ない。

 この事実の意味するところはなにか。この両者の見解はいずれもその一半は真実であり、この両者を合わせると真実になるであろう。いいかえれば、結局は運命というものも確かに存在していて人間を幸不幸にするが、一方、個人の力というものも存在していて人間を幸不幸にしているということだ。

 事実はそうであるのに成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力の側を忘れており、それぞれ一方に偏って観察していたということになろう。
 
 川を挟んで同じような村がある。左岸の農夫は豆を植え、右岸の農夫もまた豆を植えた。ところが秋になって洪水が左岸の堤防を決壊した。そして左岸の決壊によって右岸は無事だった。
 この場合、左岸の農夫は運命が自分に味方してくれなかったと嘆き、右岸の農夫は、自分の汗の結晶の収穫であると喜んだとする。これは両者とも真の事実であり真の感想である。どちらが正しいということは出来ない。天運も実際にあり、人の努力もまた実際にあったのだ。ただ左岸の農夫は人力を忘れて運命をいい、右岸の農夫は運命を忘れて人力をいっているにすぎない。そして、その運命や人力が、川の左右に偏っているのではないことは明白である。
 運命というものがあって、それが我々には見えない何かの法則で移り変わっていくものならば、その法則を知って幸運を招き寄せ、悪運を拒絶したいというのが人情だ。そこでこの人間の当然の欲望につけいって、易者やら占い師だの人相見などが登場してきて神秘的な言説をもてあそぶのである。神秘的なことを論じるのはやめておこう。われわれは、あくまで理知の灯火を揚げて暗い所を照らしてみよう。理知はわれわれにこう教えてくれる。「運命の移り変わる法則は運命のみが知っている。ただ運命と人力の関係はわれわれにも知ることができる」と。
 運命とは何か。時計の針の進行がすなわち運命である。一時の次に二時、二時の次に三時が来て、四時、五時、六時となり七時、八時、九時、十時となり、こうして今日が去って明日が来、ひと月が去ってまた次のひと月がやって来、春が去って夏が来る。秋が去っては冬が来、一年が去って次の一年が来、人は生まれて、そして死ぬ。地球が誕生し、そして消滅する。これこそが運命である。
 世界・国家・団体・個人にとっての幸運悪運などというものはじつは運命の一小断片にすぎず、それに対して人間である私が付け加えたちっぽけな評価にすぎない。
 われわれはすでに、幸運と悪運を見聞きしてよく知っている。そして幸運を招き寄せたいし、悪運はごめんこうむりたいというのは当然の欲望である。もし運命を引き動かす綱があるのならば、人力をもって幸運を引寄せればよいのである。すなわち人力と幸運を結びつけたいし、人力と悪運を結びつけたくないというのが万人の偽らざる欲望である。
 注意深い観察者となって世の中を見渡すと、最良の教訓を得ることができる。失敗者を見、成功者を見、幸福な人と不幸な人を見比べよう。そして、だれがどんな綱をつかんで幸運を引き出しているか、まただれがどんな綱を手にして悪運を引き寄せているか。
 幸運を引き出した綱を握っている手のひらには血が滴っており、悪運を引き寄せた綱は手のひらにやさしい柔らかく滑らかなものであることに気がつくであろう。
 つまり幸運を引き出す人は常に自分を責め、手のひらから血を流し痛さに耐えて運の綱を引き動かして、ついに大きな幸運の神を招き寄せるのである。何事もよろずよくないことの原因はすべて自分に帰し、部下や友人を責めず他人をとがめず、また運命を恨んだりはしない。そして、自分の手のひらの皮が薄く腕力も弱いから幸運をまだ引き寄せることが出来ないのだと考え、ひたすらつらいことに耐えて努力するしかないと、苦痛を忍んで励み続けるから好結果を得ることができるのである。世間の成功者には必ずこのことが見受けられるのが常である。
 自らを責めることほど自らの欠陥を補うのに効果のあることはないであろう。また、自分の欠陥を補っていくほど自分を成功の有資格者にすることはない、ということは明白な道理である。また自分を責めることほど他人の同情を引くことはない。そして、他者の共感と同情を得ることほど確実に成功に近づく事はないのである。厳しい綱をつかんで自分の手のひらを血で濡らすか、あるいは安易に柔らかで滑らかな綱しか握らないか、この二つが人力と運命の関係を示している。どちらを選択するか、心すべきことである。
 先に述べた左岸の農夫が、豆を植えて収穫できなかった場合に、運命を恨むより自分の知恵が足りなかったこと、予想が甘かったことを反省して、来年からは豆は高い場所に植えて低い場所には高黍(トウキビ・コウリャン・・・実が高い所になる植物)だけ植えようというように、今年の損害にめげず、次の年の計画をよくするように知恵をめぐらせば幸運がやって来るかも知れない。
 昔の偉人たちの伝記を読むならば、彼らはすべて自らを責めて他を恨むような人でないことがわかるであろう。それにひきかえ、不祥事を起こしたり悪運に見舞われた人たちを調べてみると、ことごとく自らを責めることをせずに、他人ばかり責めたり恨んだりする心の強い人間であることがわかるであろう。そして手触りのよい柔らかな綱だけをつかんで、自分の手のひらを痛めることをせず、容易で軽く醜悪なる悪運の神をたぐり寄せているのである。
 自分の手のひらから血を流すような綱を引くか、すべすべした柔らかい綱を引くか。この二つは明らかに人力と運命の関係がよくなるか悪くなるかの目安となるものである。幸運の神を引き寄せたいか、悪運の神を引き寄せたいか。ここが考えどころである。

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