2009年6月4日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第一章-2

【着手のポイントこそ成功のカギ】編述者■渡部昇一
それがどんな崇高な教えであっても、いかに正大円満な教えであっても、どこを取っ掛かりにして学んだらよいか、またどこから手を着けたらよいのか、つかみどころのない教えは学ぶ人を困惑させる。《着手のポイント》がわからない教えなど、本来あってはならないものなのだが、実際にはしばしばこういう場面に遭遇する。
 そしてまた、内容は高遇であることは感じられるのに、漠然として手がかりがつかめない教えにもよく出遇うことがある。しかしこの場合は、自分の認識・理解のレベルが教えのレベルに到達していなかったためであって、歳月がたってからようやく今のことが理解できたということもある。
 冗談ならば、論理的ゲームともいえる謎のような教えも、それはそれでおもしろい。しかし、ふつうの場合は実際の利益を得るために教えを請うわけだから、《着手のポイント》がわからなかったらじつに困る。具体的な取っ掛かりが見えなかったら教わる人は《籠耳》(聞いたことが右から左へ抜ける)になってしなう。こうなると、学習したにはちがいないのに、何の利益も生まれないから、教える人も教わる人も不本意千万であろう。


 教訓というものは、ともすれば一場の座談になってしまう傾向がないだろうか。喋りっ放しになったり、聞きっ放しの籠耳になってしまわないよう、話す人もきく人も《着手のポイント》をいつも強く意識しているように心がけたい。教えの内容もさることながら、それ以前に《取っかかり》を明確に示すことが先決である。
 農業でも建築でも、経営でも航海でも、戦術でも、また書や絵を学ぶにしても、学習者は常に《着手のポイント》を念頭に「どこから手をつけるか、そして次は・・・」とステップを踏んで一歩一歩積み上げていかなければ学習効果は上がらない。これができなければ目標達成どころか、百日たっても教室に入っていないのと同じことで、一年たっても実践の域に到達することはできない。どんなことでも《着手のポイント》を適切に知って、そこに力を注いでしだいに成果をあげ、だんだんに進んでいけるのではないか。
 この《着手のポイント》は、学ぶことの分野によっておのずから異なっているし、それぞれの志す目標によっても違ってくる。教える側からそれを示すこともできようが、学ぶ側がそれぞれの志す方向と道筋から《着手のポイント》ということを常に強く意識してそれを発見しキャッチするほうが効果的であるに決まっている。
 それぞれみんな足があるだろう。それに向かって自分の足で迫れ!
 それぞれみんな手を持っているだろう。それを自分の手でつかみ取れ!

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