2009年7月20日月曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-1-2

【気の張り一つで奇跡が現実になる】編述者■渡部昇一
 ここで、人間の《気の張り》《気の弛み》について考えてみよう。
 これはだれしも経験していることだが、人間には《気が張る》ということと《気が弛む》ということがある。気が張ったときの様子、気が弛んだときの様子、この二つのあいだには著しい違いがある。
 《張る気》とはどういうことをいうのか、また《弛む気》とはどういう状態なのか。人間の気分は張ってばかりおらず、弛んでばかりいるわけでなく、一張一弛しており、張ったあとは弛み、弛んだあとは張ったりする。この循環は昼夜のように朝夕のように、相互に終始している。
 まず、気が張る状態を観察してみよう。
 気が張るということは、内にあるものが外に向かって広がり伸びようとする状態である。しかしそれが、努力して事に従うという場合には、気持ちの中に何がしかの苦痛が生じているものだ。たとえば女性が、人通りの少ない夜道を歩いていくのは、恐怖心との戦いである。こういう場合がすなわち努力して事に従っていることである。
 あるいはまた、流れに逆らって船を漕ぐ場合、腕力がすでに尽きて滝のような汗を流しながら櫓を漕ぎ続けるのが、努力して事に従っている状態である。努力して事に従うことは、もとより立派なことにちがいないのだが、心の中に苦痛や嫌悪の情がひそんでいることは否めない。
ところが、女性が同じ暗い夜道を行く場合でも、病気の母親の急を医者に告げるために急いでいるときには、恐怖心などはみじんもない。早く母親の病気を治したいという一心だけだ。こんな状態を「気が張っている」という。
 流れに逆らって船を漕いでいた漁師のもとに、魚の大群が発見されたという知らせがくる。彼は流れの強さも腕の疲れも一瞬にして忘れ、現場に向かって力漕することができるのである。この場合もまた「気が張った」状態になったのだ。
 もちろん、努力にも気の張りはふくまれている。そして、気の張りにも努力はふくまれている。しかし違っている点は、努力には少ないにせよ苦痛を忍ぶことがふくまれているが、気を張って事をなす場合には、苦痛を忍ぶということはふくまれておらず、苦痛を忘れるとか、これは物の数ではないとしているところである。細かく観察すると、このような違いがわかる。
 深夜に読書していると、眠気を催してくる。心を奮い立たせ頑張って眠らないのは《努力》である。読書が好きで自然に眠くならないのは《気の張り》である。いいかえれば、努力は「努めて気を張る」ことであり、気の張りは「自然に努力する」ことである。この二つにはもちろん共通点があるが、《不自然》と《自然》との差があり、「結果を求める」のと「原因となる」との差がある。
 努力もよいことにちがいないが、気の張りは努力にも増して好ましいことである。この気の張りというものがある以上は、できることなら気の張りを常に保って生活したいものだ。しかし人間は他の万物と同じように、常に同一というわけにはいかない。ある時は自然に気が張り、またある時は自然に気が弛みもしよう。一張一弛、こうしてしだいに成長し、老衰していく。気を張り続けて生きていくことは困難なことである。
 同一人でも、気が張ったときには、ふだんより優れた人間に見えるし、事実また思った以上の力を発揮する。先にあげた夜道の女性にしても、疲れた漁師にしても、深夜に本を読む学生にしても、気さえ張っていれば信じられない力が湧いてくるのである。
 「火事場の馬鹿力」という言葉がある。自分の家が火事になったとき、見るからにか弱い女性が、重い大きいタンスを背負って脱出してきたりするのがこれである。これは仕事でも学問でも同じこと、つまり、張る気をもって事に当たれば、その人の最高能力を出し尽くすことができるということなのだ。たとえ四六時中、気を張ることができなくても、その事に直面した瞬間だけでも集中して気を張ることだ。それだけでも十分である。
 琴や三味線は弦を張ってはじめて音を出す。これが弛めば音が低くなる。どんどん弛めていけば最後には音は出なくなる。弓は弦の張力で矢を飛ばす。弛めば遠くへ飛ばないし、さらに弛めばもはや弓として役に立たない。人間だって同じこと、この張る気こそが事をなす原動力であって、張る気が失せてしまったら、もはや役立たずである。

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