2009年7月22日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-1-3

【なぜ弾まないのか、跳べないのか!】編述者■渡部昇一
 《張る気》の姿は、夜がしだいに明けて、少しずつ明るくなるとともに、刻一刻と陽気が増していくときのようである。草木の種子が水気を得て、少しずつふくらんでいき、まさに芽を出そうとしているときのようである。男子が十五、六歳になって、しだいに男らしくなり大望を抱いているような気配もまたそうである。
 進軍の太鼓が、はじめは緩く、中は緩からず、終わりに向かって急になり、打ち迫り打ち迫り激しく打ち込む調子もまた《張る気》の姿といえよう。
 そして、最も《張る気》を象徴しているのが、満ちてくる潮、つまり進潮である。新月と満月のとき、潮は水平線からむくむくと押し進んできて、みるみるうちに広く深く広がり洲を呑み渚を覆い、見渡す沖は中高にふくらんで、その勢いはもはや防ぎとどめる術さえない。これこそ、まさしく《張る気》の姿そのものである。
 種子のように、弓弦のように、夜明けのように、少年のように、進軍の太鼓のように、そしてこの満ち潮のように、すべて内から外へ発するものが《張る気》の姿だ。人間についていえば、自分が立ち向かうものに自分の心をいっぱいに満たす《気合》である。これはちょうど、空気をいっぱい満たしたゴムまりのような状態だ。
 本を読みながら、昨夜聞いた音楽のことなど思い浮かべるのは、気が張っておらず気が散っている状態である。本を読みながら、他のことを思うでもなく、ただ文字をたどっているのは、気が張っておらず気が弛んでいるのである。気が散るのをたとえれば、灯火が動き瞬いて物をはっきり見ることができない状態であり、気が弛んだのは空気が抜けたゴムまりのようなものであって、跳ぶことも弾むこともできない。
 同じロウソクでも、火を点けたとき気の張り弛みがあって、光の明暗が生じることがある。燃え残った芯をそのままにしたものは、ロウソクの火の気は弛んで明るくならないが、その芯を少し切ってやると、火の気は張ってきて明るくなる。ゴムまりでも同じこと。ゴムまりが冷えると、その中の気は萎縮して弛んでしまうが、暖めてやれば中の気は膨張して張ってくる。ロウソクが太くなったり細くなったりしているわけではなく、ゴムまりの中の空気の量が増えたり減ったりしているわけでもないのだ。
 この一張一弛は、どこまでもついて回る。同じことをやっても、結果は張弛によって大きな差が出てくるから、いつも張る気の保持を心がけていたい。
 本人が真面目で、いつも物事に集中しているつもりでいても、緊張はなかなか持続できないものである。何かのきっかけで、散る気の習癖がついたり、弛む気が生じる癖がついたりする。このほか、よくない気の習癖として、《逸る気》《戻る気》《暴ぶ気》《空ける気》《昂ぶる気》などがあるから油断ならない。

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