2009年7月25日土曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-1-6

【目先の一手に没頭して人生の大局を見失うな】編述者■渡部昇一
 《凝る気》は《張る気》に非常に形が似ている隣の気、つまり隣気である。しかし非常に似てはいるが本質的には別物である。張る気が、自分の対象に自分の心を充満させているのに対して、凝る気のほうは、対象に自分の気を注入し埋没させてしまう。気はひたすら対象に飛んでしまい、わが心すでにわが心にあらざる状態になったのが、凝る気の姿である。
 たとえていえば旅人が、すでに歩きだした道だからといって、右も左も見ないで真っすぐ突き進むのがこれである。それが運よく目的地に行ける道ならば幸いだが、もし違っていたならどうなる。取り返しのつかない大失敗をしでかしてしまう。
 碁を打つ場合もそうだ。目先の小さな場所の勝負にだけ心を奪われて、全体の大局を見失ってしまうのが凝る気である。そして全盤を見渡して、その場面において最も有利な一石を打つのが、張る気なのである。
 凝るというのは《死定》である。高山の湖水が凝然として澄んでいるような姿で、まことに厳しいものがある。動きを束縛された不自由不自在な心の形といえよう。
 《張る気》は善悪でいえば善であるし、大小でいえば大である。吉凶でいえば吉でもなく凶でもない。《凝る気》は善悪でいえば不善不悪であるが、大小でいえば小である。吉凶からいえば小吉多凶である。
 英雄たちには、《凝る気》の人物が多くみられる。上杉謙信も武田信玄も、晩年にいたるまで凝る気が抜けず、川中島四郡に半生の心血を注いでいる。徳川秀忠も凝る気にとらわれて、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。それにひきかえ、《張る気》の秀吉は、小牧長久手の戦いで家康に敗れたが戦争を拡大せず、自分の母親でさえ人質に差し出して家康を上洛させて、天下統一を早めたのである。さすが秀吉は凝る気の害を受けず、張る気の功を用いた点、大人物である。
 一般的傾向として、英雄・軍師・学者・芸術家たちは、剛勇であり聡明であっても、多くは《凝る気》の影響を受けがちのように思える。
 勇猛な武田勝頼の長篠における大敗北は、この凝る気の恐ろしさを如実に示している。一か所に踏ん張って、前にも後ろにも右にも左にも動かず、凱歌をあげるまでは退かないという無理戦で悪戦苦闘したあげくである。彼の強烈な《張る気》が背中合わせの《凝る気》に転換して大失敗したのである。もし勝頼が一武将であって秀吉のような総大将の指揮下にあったなら、実に素晴らしい勇将として武勲を立てたにちがいない。勝頼の恐ろしい張る気が、隣気の凝る気になってしまい、事を破り功を失ったのである。
 死生論からいうと、凝る気は《死気》であり、張る気は《生気》である。
 凝る気は《一処不動の気》であり、張る気は《融通無礙の気》である。
 凝る気は、けっして悪い気ではない。もともと張る気と裏表の関係にあるため、張る気が強く盛んになると、ややもすれば凝る気に転換してしまうのである。難儀なことに、張る気は、この凝る気に限らず多くの《子気》や《隣気》を従えているから、いつどんなはずみで転換するかわからない。なかなか容易なことではないが、張る気は張る気として、それを堅持する努力を続けなければならない。

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