2009年7月26日日曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-2-1

【自分のレールをまっすぐ敷ける人】編述者■渡部昇一
 《張る気》というものは、どこから生じるのであろうか。そしてまた、どのようにして消滅するのか、その起伏の終始について述べよう。
 人間などというものは、天地のあいだの一つの塵のようなものだから、天の法則から逃れることはできないのであるが、ここはわかりやすく身近な人間のレベルで考えてみたい。
 第一には「我とわが信との一致の自覚」から生じる。これは最も正大で崇高なものである。たとえ自分が信じていることが間違っていたとしても、なおかつそれは立派なことに変わりはない。仏教であれ儒教であれ、キリスト教であれ回教であれ、道教であってもかまわない。あるいは、自分は発見し証明し、認識肯定した信条でもよい。それが真実・公明・中正であると信じるものと自分のあいだに一致の自覚ができれば、人間はこれほど勇気が全身に満ちあふれることはあるまい。
 昔の伝導者や殉教者たちが言語に絶する迫害苦難に耐えて屈せず、鋼鉄のレールのような立派な生涯を遂げることができたのは、じつにこの「我とわが信との一致の自覚」によるものである。
 人間の道にここにあり、神の教えここにあり、曲げることのできない真理ここにあり、信ぜざるを得ないものここにあり、と確信しているものと自己とが一体化した自覚がもてれば、張る気が充満してくるのは当然の理である。
 これは宗教だけの問題ではない。数学・天文学・地理学、あるいは物理学・化学・その他の学問においても、自分と自分の信じることとの一致の自覚ができれば、おのずと気が張り、気が張ればますます精進奮励するから、学問はいっそう深まっていく。
 気が張ることによって、自覚の核心が強固になる。それが強固になると、気はますます張っていき、その一気が一丸となって大事業を遂げさせるのである。
 孟子のいう《浩然の気》の説もこれに通じるところがある。至大・至正・至公・至明の道と自分を一致させるのが、すなわち浩然の気を養うということだ。昔の聖人賢者はすべて浩然の気を養い得た人たちである。日蓮でも法然でも、伝道者パウロでもペトロでも気の萎えた人などは一人もいない。
 《信》は意・情・智との融和の上に立つことを理想とする。しかし、これはむずしい。智不足の信もある。情不足の信もある。意不足の信もある。情・智不足の信もある。智・意不足の信もある。意・情不足の信もある。むしろ、この三つの要素をそなえた信はまれであるといえよう。しかし要素の欠けた信でも、信は信なのである。
 また、智が反逆を企てている信もある。意が背いている信もある。情が離反している信もある。智・情が背いている信もあれば、情・意が背いている信、智・意が背いている信だってある。これらは矛盾に満ちていて不思議に思えるが、世の中にはこういう奇妙なことが実際に存在しているのだ。
 およそ《信の力》は、意・情・智の不足や離反などによって、著しい高低大小が生じているが、それでも、これまた信は信である。それぞれも要因によって、信の力の違いがあり、張る気の状態もさまざまだが、それでも「我とわが信との一致の自覚」が、あるいは多く、あるいは少なく、張る気に影響を与えている。

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