2009年8月1日土曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-2-6

【自分の弦を安易に共鳴させるな】編述者■渡部昇一
 美術・音楽は、天地の自然がつくったものではない。人間の自然が生み出したものである。人間は必ず気をもっているから、人間がつくり出した絵画や音楽の作品には、必ず作者の気が厳然と存在している。そして、その作品の中にある作者の気が、観る人聴く人の気にはたらきかけて共鳴作用を起こさせるのである。ふつうの集会での一般大衆の共鳴作用でさえ恐るべき結果をもたらすのだから、特異な才能の持ち主である芸術家が特異な興奮状態で結晶させた作品が気を発したらどうなるだろう。間違いなく強力な共鳴作用を引き起こすことになるだろう。
 作者の気が退廃的であったならば、それに共鳴して退廃的気分を誘発される。もし憤激緊張の気で制作したものならば、憤激緊張の気を誘発される。そして幽玄な絵や曲に接すると、幽玄な境地に誘われるし、軽佻淫蘼(けいちょういんび)な絵や曲からは、やはり軽佻淫蘼な情をそそられるはずである。
 いいかえれば、送り手(作者)と受け手(鑑賞者)とのあいだに共鳴的作用が成立したときが、すなわち芸術の成功が成り立つときといってよい。われわれが優れた芸術作品に接して、美しい、うれしい、悲しいと感じたり、心が奮い立つ思いをさせられるのは、いうならば作者が芸術に取り組んだときの心象の反映なのである。
 作者が選んだテーマ・内容・表現などが、たまたまわれわれの張る気を誘発するに足るものであった場合、われわれの気が共鳴作用を起こして張る気をみなぎらせる。もしそれが、弛む気を誘発させるものだったら、弛む気の共鳴しかない。作品しだいで、どんな気でも誘発させられるのである。
 薬の効き目は弱いが毒はよく効くという。このたとえと同じで、弛む気とか浮く気などの悪い気は容易に誘発されて共鳴的作用を起こすものだ。春画や俗曲は下手であっても人を動かすが、高尚な絵や曲は優れた作品でも俗人の心をひきにくい。俗人は善い気をもっているものが少ないため、共鳴作用を起こさないことが多いというのがその理由である。
 このように、芸術作品の持つ力は意外に大きなものがあるから、張る気のような善気を保つためには弛む気を誘発するような作品には近づかないようにしたい。気品があって力強いもの、堂々として凛々たる気があふれている作品に接すると、その気が自分の張る気を誘発して共鳴作用を起こし、自分の気の弦は協和音のように鳴り響くのである。

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