2009年8月4日火曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-3-1

【人生の上り坂・下り坂にも息切れしない秘訣】編述者■渡部昇一
 人間も一定の職業・土地・栄養・宗教・習慣・智識などに縛られていると、ある程度まではたしかに発達して幸福であるけれども、いつしかその枠から抜け出したいと思うようになるものだ。まれに科学の安定性物質のように、十年一日のごとくどっしり落ち着いた人もいないではないが、古いものを捨てて新しものを求めようとするのが一般的傾向である。
 この事実を単に、その人の節操のなさとか意志の弱さのように解釈できなくもないが、それよりもこれは、人間の内部に潜んでいる自然の欲求がそうさせていると解釈したほうが正しいのではあるまいか。マメ科の植物が連作を嫌うのは、その土地の養分を吸収し尽くすからであるか、あるいはその植物の発育に必要なバクテリア類の欠乏に基づくのか知らないが、いずれにせよ、内的欲求があって新しい土地に身を置きたがるのである。
 人間とマメを同一に論じることはできないが、三代以上続いたロンドン市民はしだいに虚弱になるという説がある。これはただ生活環境の悪い都会生活が原因あるというのではなく、人間のある状況の中に縛りつけられることを嫌い、古きを捨てて新しきを求める内的欲求のしからしむるところではあるまいか。土地だけに限らない、いっさいの物事において、古いものが飽きられ新しいものが好まれるのは、すべて生物の内的欲求から出発しているのであろう。
 しかし一方では、生物は安定を喜び、因果関係を大切にする情もある。草木は移動を好まないし、鮭などの魚類は自分の孵化地に回帰してくる。地磁気がそうさせるのか、記憶力のせいか、魚のような単純な知能の生き物が故郷に戻ってくるなどは、まさしく奇跡というほかない。燕も雁も犬猫も故郷を忘れず戻ってくる。
 人間もまた故郷が忘れられない動物である。ホームシックなどのように故郷を恋い焦がれれる病気さえある。だから、新しい境遇は人間に《張る気》をもたらすよいきっかけになると前に述べているが、ホームシックのように故郷を離れたため《散る気》《萎む気》を生じさせたりする人もいるから、新しい環境に入ることが必ず張る気を生ぜめると考えてはいけないだろう。
 張る気には、他の悪気を追いはらう力がある。ひとたびこの一気が大いに張ると、もろもろの悪気とともに病気や疲労も一掃されて、身体も精神も自然に一新される。転地・湯治・海水浴などが有効なのもこの理由によるのである。神経衰弱というのは、多くは《気の死定》もしくは《気の失調》から生じるもので、同一のことを長期間にわたって、自分の気を生かさずに使ったり、気の調節を心理的・生理的にうまくやれなかったために起こる。
 これを気の作用からいえば、散る気・凝る気・萎む気・昂ぶる気などが、その原因となっている。ところが、境遇が善くなる変化によって幸いにも気を張ることができれば、神経衰弱などはたちまちにして忘れてしまう。
 すべて病気というものは、《不覚》のうちに生じて《自覚》で成り立つものである。自覚しないときは、すでに病に冒されていてもそれに気がつかないが、それを自覚すると病はたちまち勢いづく。いいかえれば、もし病気にかかっていても自覚しなければ病気は存在しないのと同じであり、また病気にかかっていなくても、それを自覚すれば病気になってしまう。
 神経衰弱などは、病気の性質からみるとまさしく自覚病そのものである。シナの古い諺に「病を忘れれば病はおのずから逃げる」というのがあるが、これはこの近代病のために作られた言葉のようだ。境遇が善くなる変化によって気が張れば、自然に病気のことなど忘れてしまい、すでに治ってしまったように見える。
 境遇が悪くなるほうの変化でも気が張ることがあると前に述べた。これは矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど事実である。以前に比べて不快・不良・不適の状況に直面すると、これに対応しようとする作用が生じるものである。もちろん多くの人は萎縮して才能も勇気も衰えがちであるが、反対に反抗奮発の作用を起こして、決然として張る気を生み出したりする場合もある。夫に先立たれた商家の若い寡婦が、幼子を抱えて切り盛りする、あるいは戦況が不利になったとき、かえって将兵の意気が盛んになったりするのが、境遇の悪変が張る気を生じさせる好例であろう。

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