2009年8月7日金曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-3-3

【心中の泥水はこうして浄化すればいい】編述者■渡部昇一
 境遇の悪変によって《張る気》が生じ、それがよく持続しているように見えることがよくある。しかしこれは、似ていても本質的に別のものである。
 たとえば、貧乏を嫌って金持ちの老人のところへ逃げた自分の妻を見返すため、夜も寝ないで働く男、あるいは家庭内の面倒な問題から逃避して芸術や事業に没頭する男たち----。まれに本当に張る気を生じる場合もあろうが、多くは張る気ではなく、《怒る気》が変化して《凝る気》になったものである。こうなると、理も非も問わずやみくもに金を儲けるために汲々としているだけになることが多い。
 張る気と凝る気を比べると、張る気は陽性で拡張的であるのに対して、凝る気は陰性で収縮的である。張る気でやる事業は、周囲とのバランスを考えた経営だから繁盛するが、凝る気でやる事業は、十分に採算も取れて繁盛することもあろうが、周囲とのバランスがアンバランスだから円満な経営はできない。非理非道な蓄財だけになるのは凝る気のなせるわざである。
 芸術の場合、張る気で対象に向かえば、気は一刀両断されて《澄む気》が生じて《凝る気》は離れていき、俗界の毀誉褒貶(きよほうへん)などは超越した心に達すると、明らかに大きな進歩を遂げ、優れた作品をつくり出す。真面目な芸術家が張る気で制作していても、人に褒められたい、人に勝ちたい、よい評判を得たい、高く売れないものかという雑念が、あるいはちらりと脳裏をかすめることもあろう。そしてその俗な雑念が張る気の後押しをすることだってあるかもしれない。
 しかし、ひとたび真の張る気で画絹やキャンパスに向かえば、もろもろの雑念は雲散霧消してしまうはずだ。それでもなお別の気がはたらくとすれば、それは張る気の状態ではなく、純気が失せて駁気がのさばり出た状態である。どれほどテクニックが巧みでタッチが力強くても、俗気と技術技巧に趣向を凝らす気持ちが先に立っているから、その作品は駁気で覆われていていわゆる俗気や匠気の多い作品になる。それにひきかえ、技術は未熟だが、下手は下手なりに、張る気でその画題の中に没入して書かれた作品は、その人の最高能力が出し尽くされて純気がみなぎっている。駁気などはみじんもないから、芸術はそこから進みあがっていく一方である。
 こういう人でも、いったん筆を擱(お)くと褒められたい、人より優れたい、喜ばれたい、高く売りたいなどの雑念が生じるものであるが、そこを辛抱して張る気を持続して修行をしてやまなければ、いつしか自然に《泥水分離》の境地に到達できるようになる。これは知らず知らずのうちに技術が進歩するだけでなく、雑念が去って純気だけとなり、自分の内面の命じるまま自在に描けるようになるのである。
 たとえていえば、潮が満ちて海が浄化されるように、あるいは泥水が時間とともに泥と水に分離して、泥は沈み水は澄んで透明度を増していく状態だ。これこそ《澄む気》が生じた姿なのである。この状態こそが理想的なのだが、それぞれが《泥水分離》の境地に達したとしても、もって生まれた天分の大小だけは如何ともしがたい。小者は小、狭者は狭、偏者は偏、浅者は浅でしかあり得ないが、それはそれなりに妙味を出しているといえる。
 芍薬をいくら一生懸命に育てても牡丹にはならず、竜眼が美味だといっても茘枝(ライチー)には及ばない。しかし芍薬には芍薬ならではの美しさがあり、竜眼には竜眼にしかない旨さがある。それらはみなそれなりに個性を精いっぱい発揮しているのである。
 芸術家もまた同じで、《澄む気》の境地にあれば、鼻のない人を書いても象牙のない象を書いてもかまわない。張る気を積んで澄む気の城にたどり着いているならば、非難しようのない境地に入っているので、妙味のある世界を示し始めているのである。
 《澄む気》を養い続ければ、《冴ゆる気》まで到達できる。そして冴ゆる気まで達すれば、神妙の世界まで垣間見ることさえできよう。張る気をもって芸術に打ち込む人は、時として澄む気の閃光を見せて作品の進境を示すが、凝る気で芸術に取り組む人は、けっして澄む気の姿形を見せることはできない。
 張る気で芸術に打ち込む人は、たとえ鈍根であっても時間とともに、遅々としながらも着実に進歩し続ける。しかし凝る気で芸術に従事する人は、どれほど材料を浪費しても制作を重ねても進境を示すことはないものである。七年碁をもてあそび九年俳句をたしなみ、千局も打ち万句もひねったとしても小器用にこなせるようにはなるが、進歩はまったく見られない。
 凝る気の持続は張る気のように見えることがある。そして熱心に芸術に取り組む姿からは想像もできないが、そこから生み出されるものは価値の低い、悪達者で進歩の望みのない作品ばかりである。

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