2009年8月8日土曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-4-1

【大いなる宇宙が奏でる生のリズム】編述者■渡部昇一
 天の法則の中では、人間の存在などはきわめて小さく、短く、弱く、薄いものである。その人間の中でも、個人の存在となればさらに小さく、短く、弱く、薄く、そしてその個人の一時の状態となれば、もはや目にも入らぬほどちっぽけなものだ。しかしそれでもなお、そのちっぽけな存在である自己の「気」に思いをいたすと、感無量なものがある。
 人事から生じる《張る気》について述べてきたが、いよいよ天の法則から生じる《張る気》について語らねばなるまい。
 大いなる宇宙、天の法則----。これを「天の数」というが、これはなんという威厳のある犯すべからざる言葉であろうか。人間の力の及ばぬところで一日に昼と夜とがあり、ひと月に月の満ち欠けがあり、一年に春夏秋冬の四季がある。人間はこの中で生まれ育ち、意気盛んな壮年となり、やがては老いて死を迎える。無限に生きたいと願っても無理な話だ。どんなに頑張ってみたところで、千年生きるわけにいかずせいぜい百二十五歳くらいである。大いなる天の中においては、人間の微力を思い知らされるはずだ。さて、この偉大なる天の数、気の張弛について考えてみる。
 無始・・・・・一、一、一、一、一、一、一、・・・・・無終。これが天の数である。一を一日と考えてもよい。あるいは、一時間、ひと月、一季でもよいし、一年と考えてもよい。無始は知らない。無終もまた想像もつかない。ただわれわれは、一、一、一、一、一、の《場合》と《状態》とを知っている。これをいいかえると、無始・・・・・一、一のつぎの一を第二、つぎのつぎから第三、第四、第五、第六、・・・・・無終と置き直してもよいし、無始・・・・・A、B、C、D、E、F、G、・・・・・無終でもかまわない。
 無始はさておいて、たとえば人類発生の年を第一年として、今われわれが生きているのが第○万○千○百○十○年だか知らないが、この目もくらむような長年月の中のせいぜい五十年ほどが一人分として埋める分量だ。この間、われわれは天の数の支配下に置かれているのであって、われわれが天の数を支配しているのではない。
 人間の寿命を五十年(当時の平均寿命)とすれば、五十年間、二百季間、六百月間、一万八千二百六十余日間、四三万八千七百余時間のすべてを天に支配されているのである。いつまでも夜であってほしいと思っていても毎日きちんと夜は明けるし、いつまでも昼であってほしと思っていても毎日きちんと日は暮れる。暑い夏や寒い冬をいやがっても、春のつぎは夏、秋のつぎは冬と天の運行はみじんの狂いもなく行われる。雨・風・雪・霜、地震・洪水・旱魃(かんばつ)・噴火なども、すべて天の支配するところで、人間の力など遠く及ぶものではない。
 身近なところでは、まず昼夜の支配を受けている。灯火を発見してから何千年になるか知らないが、鳥獣と同様に灯火の使用を知らなかった大昔の先祖たちは、日の出とともに起き、日の入りとともに眠ることを余儀なくされたであろう。この習性は人間の脳に染み入り、それが遺伝し、電灯のある現代にまで引き継がれて、われわれは今なお朝起きて夜眠るというこの周期作用に従っている。
 しかしこれは、単なる習性ではなく、太陽のもたらす光明と温熱、夜のもたらす暗黒と寒冷という、昼夜によって変化する空気の成分の振り子のような運動推移によって支配されているのである。こうして自然にわれわれは、朝になったら起きたい、日が暮れたら家に帰って眠りたいという気を抱くのだ。この明白にして簡単な事実は何を物語っているのか。

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