2009年8月9日日曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-4-2

【これがあれば百人力、目覚めの気】編述者■渡部昇一
 人間の精神力は強大なものにちがいないのだが、それでも天がコントロールしている物質の世界の法則に、精神までも支配されていることを忘れてはならない。人間の精神がその支配を受けないのは、たとえていえば治外法権のある区域のようなもので、ある許された小範囲に限っているといえよう。心身で交流している人間の気は、すべてを覆い尽くしている天地の気と呼応し交流している。つまり人の気は天地の気の支配下から逃れられないのである。
 試みに、秋の夜長に船を海に浮かべてみるとよい。海上の闇の中であまり想念を動かすことなく暁を迎えるとしよう。飲食物を摂らないのに、そしてまた気を燃え上がらせたりしないのに、夜明けが近づくとともに、自然に気合が満ちてくる。午前一時から二時半ごろまでの気合と日が昇るころの気合とは大いに差異があることが自覚できるであろう。
 手のひらの《て》の字の筋が見え始めるころから、少しずつ明るくなり、親指の《腸処(わたどころ)》の細紋が見え、指の《木賊筋(とくさすじ)》の細かい縦線が見え、やがて指先の渦巻きや《流れ紋》までが見えるころには夜は明け放たれ、それとともに体内に気は満ちあふれてくる。まさしく天地の気と人間の気が相呼応していることはだれにでもわかるであろう。
 朝の気と暮れの気との相違は、二千余年も昔の孫子が明らかに指摘しているし、孟子も朝の気のことを説いている。人間の朝の気は、天地の陽性の気に影響されてじつによく張っているものである。
 これを生理的に考察すると、まず第一には疲労の回復ができていることである。体内の廃残物の処置が睡眠中に終わって排泄器官に回され、新しい活動を起こすにふさわしい態勢になっている。つまり疲労の原因となるものはすでに疲労を起こす位置になく、あらかた除去されようとしているからだ。
 第二に胃が空虚になると、胃の付近の血液が少なくなり、脳にたくさんの血液が注がれるために脳の作用が活発となり、精神機能がその能力を十分に発揮することができるからである。人体実験によっても証明されたが、精神の活動も筋肉活動と同様に血液が大きく関与していることがわかる。
 ものを食べると、胃腸が運動して血液が集まってくるため、脳部には多少とも貧血を起こして精神作用が弛緩して遅鈍となる傾向が見られる。食後に眠たくなったりするのはこのせいである。貪食が睡眠を引き起こすことはよく知られている。だから眠ることを欲しない人は食事を多く摂らないようにしている。そもそも仏法の僧侶は、教条として本来睡眠など摂るべきものではなく、釈迦在世のころの僧侶は三度三度の食事は摂らなかったという。今日の僧侶たちは、すべて形式を軽視する傾向にあるが、形式の軽視はほんとうは浅薄なのだと思わずにはいられない。
 さて、脳が血液を消費した場合、当然のことながら消費の余りの廃残物が堆積する。廃残物というものは、すべて毒性を持っているから、精神活動から生じた廃残物は、精神活動を弛緩させたり遅鈍にしたりする。それが積み重なると眠くなったり頭痛を起こしたりもする。ある時間休息することによって、これら廃残物は少しずつ体内から排出され、新しい血液が再び脳に届けられると、脳はまた爽快に活動するようになる。人間の身体はふつうこのように活動と休息とが交互に行われて健康が保たれているのである。

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