2009年8月12日水曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-5-1

【天地に気は一つしか存在しない】編述者■渡部昇一
 天地には《気》は一つしか存在しないと『荘子(南華経)』は説いている。
 大所高所から説けば、森羅万象すべて一気に基づき、一気が百変して百花が開き、一気千変して千草が萌え出るのである。
 山はそびえ水は流れ、雲は集まり雨は降る。春は暖かく秋は涼しい。清らかな白と濁った黒、正義と邪悪、賢明と愚鈍、流れと停滞、伸びと縮み、人と動物、神と鬼、これらはみな、元である一つの気が分割し、旋回し、曲折し、磨き洗われ、衝突し、交錯して生じるのである。
 視点を絞って、それぞれの物について個々に見れば、気は多岐多端にわたる。四君子といわれる蘭・竹・梅・菊などの花にはそれぞれ気があり、梨・柚子・蜜柑などの果物にもまたそれぞれ独特の気がある。気は広く大まかにとらえれば一つであるが、分解すれば千差万別の様相を呈する。
 そもそも気は、物から発するものなのだが、きわめて微妙でとらえにくいものである。その物の気というものは、すなわちその物の本体と同一のものであり、本体の目に見えないいわば微粒子のようなものである。一つであっても二つ、二つであっても一つ、気があれば必ず物があり、物があれば必ず気があるということができる。
 気と物が離れたら、物はすでに物ではなく、物と気が離れれば、気はすでに気ではない。気はすなわち物から生じてくるもので、物はすなわち気の基づくところの気である。
 いい方を変えてみると、静かなる状態を《物》とすれば、動く状態を《気》といえよう。あるいはまた、根本を《物》とするならば、末端を《気》ということができる。
 具体的にたとえれば、水を物とするならば、水上の靄(もや)は水の気であり、火を物とすれば、熱い熱が気である。水があれば当然のことながら湿気が生じるし、火があれば乾燥して熱くなる。湿気や熱や乾燥は目に見えないし、とらえどころもないけれど、気は本体である物と同一不可分のものなのである。水がなくなれば湿気も存在しないし、火が消えれば熱も乾燥もなくなってしまう。

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