2009年8月13日木曜日

幸田露伴「努力論」を読む 第五章-5-2

【微粒子のこの見事なパフォーマンス】編述者■渡部昇一
 すべての物には、物の気がある。蘭には蘭の気があり、「蘭気新酌の添い、花香別衣を染む」というのが、それである。菊には菊の気があり、「荷香晩夏に消えて、菊気新秋に入る」というように菊気という言葉もある。神に供えるのは鬱金(うこん)の香りの酒の気である。梅には梅気、竹には竹気、松には松気、茶には茗気、そして薬気・酒気・毒気・霜気・雪気・・・・・と、ありとあらゆるものに、それぞれの気が必ず一体となっている。
 日本語の《におい》というが、この《気》にあてはまる。今では、匂いや香りの嗅覚のほうに限られているが、本来的には色の艶、声の韻、剣の光、人の容姿などに広く使われていたのである。
 香りのある物の気はすなわち香臭であるから、蘭気・酒気・薬気・茶気といえば、まさしくそれぞれの香りそのものであるから、《気》を《におい》と解釈しても間違いではないだろう。また、剣の光や人の容姿はすなわち剣の気であり人の気であるから、これを《におい》といういい方をしても、《におい》の古い使い方と同じであるうえ、《気》の意味を明確に表現している言葉といえよう。
 竹気・霜気・雪気などは、そのまま竹の香・霜の香・雪の香とはいいがたいが、これを竹・霜・雪の《におい》とすれば《気》の字の意味合いが表われてくる。
 水を熱すると、いわゆる「ゆげ」があがってくる。この「ゆげ」はまさしく「湯の気」である。蒸し器の上の気がすなわち「ゆげ」である。このように、物から立ちのぼったり横走りしたり遊離したり、有るようで無いようで、見えるようで見えないものを、名づけて《気》という。
 海潮の気を潮気といい、山岳の気を山気というように、河気・沢気・野気・泉気・虹気、暈気(うんき)・塵気・雲気、あるいは日輪の両側に現れる珥気(じき)など、気の類は無数にある。これらもまた、その本体から発する微粒子のようなものだといっても差し支えないだろう。山や河や海の微粒子などというと、つかみどころがないが、いってみれば山・河・海の影のような香りのような、人間のエアーのようなもので、それぞれの気象つまり様子のようなものを気というのである。

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